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貿易茶物語

貿易茶物語 第9回 吉川覚次郎の先見・東亜製茶・戦争

茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第9回

THE STORY OF JAPANESE TEA TRADE

貿易茶物語 第9回

吉川覚次郎の先見・東亜製茶・戦争

大石 鵜一郎 著

吉川覚次郎氏の先見の明

台湾の中野商店の紅茶をマッケンジー氏と取引した翌日、私の旧主人であり、毎日荒茶を斡旋取引しておりました吉川本店へ行き、大将と私と丁度二人だけ店におりましたので、この取引の話をしましたところ、大将曰く、「お前だからマ氏は信用してこの取引が出来たのだ。自分も台湾紅茶については興味を持っているから是非中野をつれて来て自分に紹介しろ。今日十一時過ぎから北番町の工場にいるから極秘でやってくれ。必ずつれてきて」と強く言われましたので、旅館大東館で中野氏と会い、来年は静岡の紅茶も生産が増加するからしたがってそれに配合する台湾茶が必要となると思う、と話し合いました。

(駐)

文中の中野十郎氏は、当時東京の有力大問屋吉浜商店に勤務されており、何年か前に辞任され渡合し、台北市に茶商店を創立し、苦難をも努力で征服して内地人(当時台湾では日本人を内地人と言い、台湾人を本島人と称し、双方の交際はみな円満で他の業者には合弁の商社も多くあり、終戦まで人種的区別はありませんでした)として、唯一の再製工場を持ち、魚池にはアッサム種の茶園まで開拓し、満州方面に釜いり茶と紅茶を取引され、終戦まで台湾で一流商社となった台湾茶業界の顔役の一人でした。 終戦で工場も茶園もすべて没収され、引揚者として帰国し、郷里山口におられましたが、三十四年他界されました。 この中野氏などが敗戦の犠牲者の見本といえます。

東亜製茶

日華事変も戦線が仕第に拡大されヨーロッパ、東アジアの風雲やかましく、茶業者はアメリカとの国交が平和裡につづけられる事を祈らぬ者はありませんでした。 昭和十五年にアメリカ、カナダ及び第三国ドイツ・イタリーへの輸出が四千六百万ポンドでありましたが、昭和十六年に農林省が茶の価格統制令を布告しました。実際は前年から内地販売は小売価格の協定をきめていました。

しかし、この統制令に貿易は除外されていましたが、為替の管理、船舶の不足などから貿易は困難となりました時に、政府が七月に外国資産凍結令を発令しましたので、十月には茶の輸出は途絶のやむなきにいたりました。

一方満州は独立国家を形成し、北支及び蒙古は戦火の影響を受け、生活必需品の茶は不足していましたので、この方面への取引は急激に増加し、日本紅茶(KK)、駿静製茶、サス吉武田商店、清水市袖師のカネカ大石才次郎商店、三井物産などがその方面に活躍し、又、蒙古向けダン茶は清水俊二氏が東亜製茶を創設し、当時占領下にありました中華民国の漢口(現武漢)の工場で製造を始めました。

ところが、需要に応じきれず静岡にダン茶工場を建設し、九州宮崎に建設された鐘紡の工場とでダン茶の製造を開始しました。

昭和十七年に満州国は、生活必需品購買社を成立し、茶もその中に含まれましたので、吉川合名会社、鈴和商店(代表として時田松蔵氏)、駿静製茶の青野直次郎氏、サス吉武田安太郎氏、日本紅茶の柚原慶二氏、清水俊二氏、水上源太郎氏それに県購連を代表して石川氏と河村鐘三氏などが発起人となり東亜製茶株式会社が設立され(北番町)、社長吉川覚次郎氏、専務に時田松蔵氏、常務に水上源太郎氏、そしてヘリヤ商会に永年勤務され支配人、仕入主任であった鈴木昌雄氏が支配人兼買付け主任となり、満州国及び北支への輸出を開始したのです。

この取引を茶業者は円ブロックへの取引と称したのです。

この満州国及び北支への取引は静岡県ばかりでなく、京都府では辻利一氏が京都ブロック、三重、奈良、滋賀は中島氏が関西ブロックをつくり、玉露及び上煎茶を、静岡県は上煎茶と番茶ほうじ茶を日本茶直輸出組合と三菱商事、三井物産を経由して取引したのであります。

その包製は、最初は大箱入でしたが第二回からは全部小袋入でしたので、その点今迄の輸出と異なりました。

天津、営口など北支方面への取引は紅茶とグリ茶が大半で、蒙古へはダン茶が取引され、今迄の輸出再製筋が加工にあたり昭和十七年からは、国内消費以外は東亜製茶が唯一の茶の国外への取引場であったといえます。

そして東亜製茶も昭和二十年六月十五日の静岡の大空襲により灰燼と化したので、事務所を安東二丁目に移し、残務整理をして終戦を迎えたのです。私の店は、東亜製茶の指定売込商であり、終戦迄茶の取引についていられた事は一生の思い出です。

戦争

昭和十六年の価格統制令が始まり、戦争は拡大し、外商に資産凍結令が公布され、十七年には外商は、軟禁される状態となり、外商は皆、店舗工場を国に接収され、再製業者、輸出業者の工場も軍需工場になり、茶の再製は内地の一部に限られ静岡の茶市場は戦況の悪化に伴い姿を消し始め、そしてその従業員も応召又は徴用により転換を余儀なくされ、一方茶生産地の茶園は、牧之原の大半が飛行場と変ったのを始め茶は生活必需品から除外されました。このため米など食品原料の生産に切り換えられ、生産は減少、しかも輸送関係も極度に悪化し、県下の大精揉機の工場も軍需工場の建設の為買上げ又は軍需品製造工場となり、茶は統制品の内に入れられましたので、取引は限定されました。

かくして、お茶の静岡県の姿は日に日に米軍のB25による各地への空襲と共に消えていったのです。

一例を述べると、紅茶は贅沢品の中に入りましたので、静岡の丸子にありました広大な日本紅茶(KK)の工場全部は解体されたのを始め北番町の倉庫は全部軍需品の貯蔵所となり、北番町の一部が通行禁止になった事でも当時の戦争一色になった事がわかります。

この様に世界大戦となり食料品の輸入が皆無となりましたので、国内の食料品始め物資の欠乏は、すべての物資が配給制度となり、タバコなども十本一円程度となった事でもいかに国民が苦難にこらえたかが判明します。

しかし、国の政策として植民地即ち台湾、朝鮮、満州などは治安その他の関係からこの制度を除外しましたので、北支、満州などの茶の需要は増加し、煎茶には外商の凍結茶を政府から払下げを受けて合組し、紅茶は台湾から移入しました。特にダン茶は、軍が服をつくるのに必要な羊毛を蒙古から輸入するのにダン茶との物交でなければ手に入りませんでしたので、国内の茶の不足から台湾から頭茶、紅緑の棒茶を移入しました。

ここで当時の植民地の事情を参考に記しますと、台湾には私が、日本紅茶、吉川合名などの依頼を受け、前から度々渡台していましたが、昭和十五年には紅茶の買付けに三回行きました。米は在庫が多く他の物質も豊富で、国内とは全く異った環境でした。茶は、包種茶と紅茶が主体で、北支と満州の一部営口と香港への取引が大半でした。一例をいうとサントリーウヰスキーなどもマル公で一人何本でも買えるなどは内地では考えられぬ風景でした。

十六年にはダン茶の原料約十万貫(三百五十万キロ)を厚生省の買付け証明を持って行きました事などは今も思い出の一つです。

そして昭和十六年十二月、野村大使を国がアメリカに派遣し、最後の交渉に入りましたのと同時に、日本紅茶はその結果を考慮して、私に渡台をたのみ、戦争の有無により台湾茶の処理を一任されましたので、私は台北へ行きましたところ、すでに台北は勿論、高雄、基隆は多くの日本兵と艦船で出陣の用意をしていましたので、日紅の方針に従い処理をしました。 宣戦布告日米国交断絶の前日、上海廻りの軍用機で上海に飛び、軍用機の都合で半日滞在し、上海最後の日を見て夕刻上海を立ち、博多に帰りました時は新聞記者に上海の情況を聞かれたのも思い出の一つです。

昭和十八年六月、東亜茶業から紅茶買付けの依頼を受け渡合し、目的の数量を買付けましたが輸送が困難で漁船をチャーターし、神戸に運送させた時などは日台間には米潜航艇の横行が甚しく、上海は危険状態で敗戦近しとの感を私は抱いておりました。 この台湾茶の買付けが最後になるとは思いませんでした。というのも、この十八年十二月に再び渡台する予定でしたが、妻の病気そして十九年三月には死去のため中止しました。戦果期待に反し、各地への空襲により静岡市内でも疎開する家が多く、茶町通りの茶業者も私のほかに二、三人だけとなり茶の取引もなくなり二十年の静岡空襲によりすべてはなくなり不安の日々を過しました。その当時の事は今の若い人には考えられぬと思います。

そして天皇陛下の無条件降伏の詔書により、一切は終りをつげたのです。この時私の頭に浮かんだ事は今後の日本はいかになるか、茶業は果してどうなるかと考えまた人生を考え、筆舌にあらわせぬ感無量のものがありました。

出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。

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