貿易茶物語
貿易茶物語 第1回 まえがき・日本茶の輸出のはじまり
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第1回
貿易茶物語 第1回
まえがき・日本茶の輸出のはじまり
大石 鵜一郎 著
まえがき
静岡が我が国の茶取引の中心市場である事は全国民の知る処です。
これは静岡県が全国一の茶産地であるばかりでなく、他府県で生産される茶も、値段は静岡市場の相場により左右され、又製茶も静岡に出荷されて貿易や内地需要に配合され販売されたからだといえます。
しからば、何故に静岡が全国一の茶市場となったかを考えますと、先ず第一にいえる事は、明治の中期、言葉をかえていえば日清戦争前後に、アメリカ、イギリスの茶商が日本で茶が生産されている事に目をつけ来日し、横浜で日本茶と中国茶を比較し、再製加工(着色)すれば米国民の嗜好に中国茶より適すると判断し、横浜の租借地(当時この土地を我が国では居留地と称した)に続々と工場を建設し、荒茶を仕入れて再製し(火入は手釜)外商自らが輸出したのに始まり、数量も年々増加の一途をたどりました。
明治三十八年、日露戦争が終結し日本政府も経済の向上が貿易の発展が急務であるとの認識を深めた事により静岡県も貿易港として清水港の設備に力を入れる事になりました。当時静岡には貿易茶商としては、富士製茶合資会社(現在の富士製茶の前身)が北番町に明治三十二年再製工場を建設した一社のみでしたが、明治三十七年当時の日本茶業界の第一人者でしかも茶の輸出に最大の関心をもっておられた、大谷嘉兵衛氏が静岡へ工場を建設され名称も日本製茶株式会社とされたことと、清水港が貿易港として認められ静岡茶が直接清水から米国への輸出が可能になったことが、静岡市が茶業の中心地となった最大の原因です。
さてこの書は、著者が大正三年茶業界に入り今日まで茶業一途にたどってきて、貿易内地両取引に携さわってきましたので、茶業界の移り変りを綴りました。しかも私の亡父が横浜時代に茶業のアメリカ三十六番館エブリル商会の工場長を務めておりましたのでよく話を聞きましたのと、著者も十四歳迄横浜で育ちましたから横浜居留地の外商の歴史も書き綴りました。取引に実際関係しておりましたので、統計からの茶の歴史の著書はありますが、取引の表裏から綴りましたのがこの書です。
輸出部長故吉川省三氏を始め、貿易に携った業者が、現在貿易の事について昔からの事を知っているのは筆者だけだから、将来の参考の為にも書けと言われましたので、あえて筆をとった次第です。
戦災により多くの書類をなくしましたので、年代に少々の相違があると思います。又、文中敬称を省略させていただきました事をあらかじめお詫びいたします。
日本茶横浜港より初輸出
徳川幕府が倒れ明治維新を迎えた我が国は、世界の日本としての第一歩を踏み出し、各国との通商関係も締結されましたので、アメリカ、イギリスを始め各国から日本の特産物に就いての照会が始まり、特に生糸、羽二重及び茶についての取引にはイギリス、アメリカが特に関心を呼び起こしました。
茶は明治初年からイギリス、アメリカの茶商が、神戸、長崎(当時横浜港は未完成でした)に来日し取引を開始したのがはじまりでしたが、当時は再製設備がないので数量は少量でした。
横浜港の設備が整ってきました明治二十年頃には横浜に生糸、羽二重の輸出を主体とする取引所が開設されたためと、首都東京に近い関係で貿易上の手続きその他総べてに便利なため、各国の船会社は日本における輸出入の起点を横浜に開設しました。
アメリカ、イギリスの茶商社は日本一の茶産地静岡県と一番近い事などから横浜の居留地(現在の山下町一帯)に工場を建設し、自己再製をして茶を輸出する事になり、神戸、長崎にありました商社も二十五年頃には横浜に集結されました。
この頃イギリスの商社が買付けたその茶は、イギリス本国へ輸出したのではなくアメリカ及びカナダへ発送したのです。これはアメリカが独立したばかりでしたので、イギリス人の経営する商社がアメリカ実業界に大きな勢力をもっていたことに原因します。
横浜居留地の外商(横浜では商館と呼称)は輸出茶が着色茶の関係から、広大な設備の再製加工工場を造り、明治二十五年頃からは本格的な荒茶の取引が多くなり、これに伴い横浜の本町北仲通り一帯に荒茶委託販売問屋が店舗をもち始めた。そして商館筋が荒茶の仕入れについては、アメリカ、イギリスにてはその商取引に専属ブローカーを使い商談をまとめさせている習慣からその方法をとる為には、ブローカーが必要ですから外商の代表が当時横浜における茶業界の第一人者、大谷嘉兵衛氏(この方の銅像が戦争中迄静岡の清水公園にありましたが、戦時中金属回収により除去されたが現在胸像として復元している)にはかりその人選を依頼したのです。
しかし当時茶のブローカーはおりませんでしたので考慮の結果、当時横浜の生糸市場は外人の出入りも激しく、立合いブローカーは迅速なる取引にもなれておりますので取引場と話合い、輸出茶のブローカーになる希望者を集め、この人達を外商に推挙したのが茶専属ブローカーの始まりで各自がつとめる商社と荒茶委託問屋との間を行き来し、商談をまとめたのです。
当時は自転車もないので、乗物には人力車が使われました。当時の横浜の居留地には外人が多いので、各辻々に辻待ち人力車がおりました。従って取引は商館と委託問屋との間で行われ直接取引は一切ありませんでした。
専属ブローカーの収入は、その取扱った数量により委託問屋から一定の口銭が支払われ、買手からの給料は貰いませんでした。この取引の制度は茶の市場が横浜から静岡へ移り、昭和二十年の終戦迄、商社での荒茶取引に関しては引継がれました。静岡の内地問屋の取引にもこの方法が採用され、取引にはブローカーが仲介する事が商取引を円滑迅速にできるので、その存在が今日でも形を変えておりますが、取引になくてはならぬ存在となっています。今の言葉でいう斡旋業者の始まりはこの横浜時代の輸出茶の初期から引続き受け継がれているのです。
当時生糸市場のブローカーから茶に転身された方の一人に今日、静岡市安西の内地問屋イジュウ伊藤商店の先代健次郎氏がおります。又荒茶委託問屋としては、大谷嘉兵衛氏の経営する大谷商会、岡野谷商店、明石屋(材木町伏見製茶の創立者)、遠州森の出身の黒川商店(後に津一商店)、藤枝市で再製業をされたサスナ笹野商店、マル三堀商店などが主なる委託問屋でした。
今書きました委託問屋津一商店に勤務された方で、元気はつらつたる方に葵町野桜氏の尊父松浦治平氏がおられます。
当時のこの問屋は、各店が倉庫と合場を持ち、堂々店舗で静岡を始め全国各地から送られてくる荒茶を、茶方が仮価格を定め荷主の指値と商館の買値との交渉をブローカーを介して商談をまとめ、取引きは全部現金払いでした。
新茶の前などには今年の横浜港出港の一番船は何日の予定で相場の予想は
駿河物 ○○円位
遠州物 ○○円位
浜松物 ○○円位
と書いて、委託問屋は宣伝に各地の仲買人宛にハガキで送りました。
なお、当時の貿易の荒茶取引値段は百斤(六〇㎏)が建値でした。
この委託問屋は、今日の横浜本町通りか北仲通りに集結しておりました。そして静岡県茶以外に京都、三重、四国、九州の茶も相当量入荷されていました。
当時は着色茶の関係から貿易向きの仕上げ茶の取引きはなく、外国商社は皆再製工場を持っておりましたので、荒茶取引きで荒茶を手釜にて再火し、その火入れ中に着色をし、竹製のトウシを使い加工して釜茶、篭茶(PAN FIRED BASKET・FIRED)として輸出されたのです。
従って、手釜がどの商社も三百以上ありましたから、女工さんを集めるのに苦労したのです。
この人達は、「お茶場の女工さん」と言われ横浜居留地の名物の一つでした。
輸出茶の草分
明治三十五年富士製茶合資会社は、社長原崎源作氏と出資者の尾崎伊兵衛氏が北番町の自己の土地の提供をうけ現在の厚生病院とその前の厚生寮の一角全部に輸出茶再製工場と倉庫を建設し、工場には従来再製火入れに手釜を使用していたのを自己が発明した原崎式再製釜にかえ、仕上げも機械化し新しい茶再製の第一歩をきづき、その製品を横浜の同社の支店を通じ、アメリカ・サンフランシスコの同社の支店に輸出したのが静岡県輸出を静岡から出した始まりです。そして、尾崎伊兵衛氏は荒茶の委託問屋を尾崎国産社と称号して、安西三丁目(現在の鈴和商店の所)に開業し、荒茶生産者の製品を集荷し富士製茶に供給しました。
この二社の創立が、輸出茶の取引が横浜から静岡へ移動した一原因といえます。
富士製茶は、アメリカ・サンフランシスコに支店を設けアメリカに新販路を開拓されたのは、当時の日本が移民を多くサンフランシスコ、サクラメントへ移住させたのに、原崎氏は目を付けたのだと考えます。
又、原崎氏は再製茶の輸出と同時に社内の一角に、荒茶の製造機(所謂精揉機)を設置し生葉を集め手揉みから機械化の研究を松下氏と実際に試製して、今日の機械化の原動力をつくられた功績は、大なるものがあります。
ここで、原崎源作氏の人となりを話しますが、同氏は発明心が強く研究熱心の技術者でありました一方キリスト教の大信者で、富士製茶の一角に教会と日曜学校と子供の遊び場をつくり、遊具をそなえるなど当時の静岡人の考えられぬ設備をし、一般から喜ばれましたが、この施設は工場拡張の為、大正五年頃なくなりました。
また、社員の融和と娯楽そして団結力を強める為にとアメリカ・サンフランシスコの支店より野球器具一切を取りよせ、富士製茶野球部を設立し、近くの招魂社の境内で休み時間を利用し練習しました。
当時、静岡には静岡中学(現静岡高校)以外には野球部はなく、当時(明治四十三年頃) 著者は静中野球部の選手をしておりました関係で度々練習試合をした経験があります。
富士製茶野球部は大正に入り、当時慶応大学の名投手新田恭一氏をコーチに招くなどして技術の向上につとめました。
富士製茶野球部は、今日の社会人野球の先駆者であるといえます。
原崎氏はこの様に新しい頭の持主でしたが同業者との付き合いはきらい、独立独歩の精神で一生を茶業の機械化、発展につくされたのです。
この富士製茶の静岡設立は在横浜のアメリカ茶商社に大きな衝撃をあたえ、茶業をやるなら横浜より産地静岡の方がよいではないかという空気が出始めました。
明治三十八年頃、在横浜のアメリカ商社、ジャーデンマゼソン商社(通称英一)、ヘリヤ商社の二社が先ず第一に静岡移転を考え、北番町に土地を買入れたのと、初め誰しも考えなかった神戸の輸出業者が神戸製茶静岡工場と称して北番町に設立したのが第一歩で、つづいてバソト商会メーシー(通称アメ三)が続き、エブリル商会は社主死去のため支配人ブロー氏が跡を引き受け、その名称をホイヰットニー商会と改め、富士製茶の一室を借り、仕入れを始めたのが、茶市場が横浜から静岡に移った始めです。工場の設備はなくとも輸出向け再製茶工場が出来て思う様な製品が買い付けられる事がアメリカ市場に知られ、新しくアメリカ、カナダからブランデン商会、ホルジャー商会、シーグフリード商会、ゴットリーブ商会、ピーターソン商会が来静、また当時日本政界の大立者伊藤博文公のニューヨーク駐在員古谷竹三助氏が古谷商会を又、カナダの業界を知る西村氏が西村商会を開業し、日本郵船(KK) の社長近藤氏が清水港開港のねらいをこめ日本共同製茶を設立し、東洋製茶と北番町に新築中の大石製茶を買収し、北番町に本社を置き、部下である渥美氏を社長にし、貿易に期待をかけました。
一方、再製業者としては横浜茶市場の荒茶委託問屋の第一人者明石屋吉永氏が当時静岡市材木町の有力者伏見一家と提携し、材木町に伏見製茶を設立、安西三丁目には吉川覚次郎氏が大工場を設立、この二大再製を始め、静岡内地茶商の有力者水上、小山を主体にした駿静製茶、上田栄吉のカネ久再製(後の静岡製茶)、駿遠製茶、静北製茶、成岡製茶、ヤマセ赤沢屋、浜佐商店、横浜から移転して来た岡野屋などが安西、北番町を中心に集まり大正二年迄に横浜名物居留地のお茶場は姿をけし、お茶の静岡は日本一の茶市場となり、静岡の経済界の中心は静岡北部にかわりました。

大正元年〜大正6年ごろ(1912〜1917年ごろ)の様子を描いた地図
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
貿易茶物語 第2回 横浜から静岡へ移った茶の市場
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第2回
貿易茶物語 第2回
横浜から静岡へ移った茶の市場
大石 鵜一郎 著
輸出茶再製業の始め
明治三十八年の日露戦争の結末は我が国に新しい時代を築く礎となり、国内経済界は勿論、輸出入貿易にも変化があり特に横浜、神戸などの外国の租借地(いわゆる居留地)の返還などはその一例です。
そこで横浜のアメリカ、イギリス居留地に広大な工場を持ち、経営していた外商には、大きなショックで、それが外商が産地の静岡に移転した一つの原因といえます。
しかも、原崎、大石両氏の機械による火入れ再製釜の発明により従来の手釜による火入れより場所も狭くてしかも人員の整理ができ、再製茶の工場の縮少が可能になったことと、清水港が貿易港となり、輸出に便利になった事が移転に拍車をかけたといえます。
一方、地元静岡においては、前述の日本製茶株式会社(社長大谷嘉兵衛氏)の創立により業者も貿易茶の再製を考え、富士製茶は工場を増設し、吉川覚次郎氏(吉川合名の創立者)、成岡甚之丞氏(現三和茶業の社長浩次郎氏の尊父)、赤沢屋などが、原崎式再製釜をすえつけた工場を建設、また水上房吉、小山兼吉、吉川國太郎、高須氏等が主体となり駿静製茶を、鷹匠町には海野孝三郎氏(当時の一般の人は同氏の名称を井川の殿様と呼び、安倍一の素封家で、日本茶業の発展のため持てる財を全部茶の為につぎこんだといって差支えない茶業の恩人です)が東洋製茶を創立したのと、横浜茶市場の荒茶委託問屋の右翼に位置していた明石屋吉永商店が、材木町の伏見忠吉(当時の静岡財閥)と提携して伏見製糸を建設、また上田栄吉氏はカネ久上田再製を北番町に、そして日本郵船社長近藤氏は、本社が清水港開港に尽力し、茶の輸出港の発展には自らも茶の輸出を考え、日本共同製茶株式会社の社長になり、県下藤枝、牧之原と北番町に工場を建設し、外商を横浜から静岡に移転させる体勢を整えたのです。
一方、明治三十八年末、横浜外商のトップクラス三十六番館エブリル商会が社主の死去により茶業から手を引く事になり、業務一切を支配人グロー氏にゆずりました。
同氏は富士製茶と話し合いの結果、静岡の富士製茶の一部を借り静岡で新しく開店する事になりました。
このグロー氏が後のホヰットニー商会の創設者である事を付け加えます。
そして富士製茶の製品だけでは注文が間に合わなくなり、再製茶取引きも開始したのです。
さて、横浜時代は再製茶の取引きは、僅少でしたが、前記した各氏と静岡茶商が一丸となり再製釜の発明により前途再製茶の取引きが中心になる事を信じ、再製業開始に全力をそそいだ勇気と決断は高く評価されるべきであり、今日お茶の静岡といわれるのも前記諸氏の努力の結晶といえます。
なお、郡部にても吉田村のカネ万中村円一郎氏、藤枝町の笹野徳次郎氏、横浜で荒茶問屋を経営されていた堀有三氏が出身地掛川に再製工場を建設し、つづいて藤枝にカネ三西野氏、岡部に駿岡社、藤枝にカク二鈴木商店など輸出向け篭茶専門の再製工場が出現しました。
横浜貿易茶市場が静岡へ移動
外商が静岡へ移転した原因は
第一に居留置の住民の返還期が来た事
第二に製茶再製機、特に再製釜が原崎、大石両氏により発明され、従って従来の手釜より広い場所が必要なくなり従って工場がせまくてすむ事
第三に時の政府が清水港を貿易港として指定し、しかも日本一の茶産地と静岡と近接し輸出に便利な事
第四に横浜居留地は当時の流行病の内一番悪性のペストの流行地であり、その消毒には当時は石炭酸を配布したので、そのにおいが茶にうつりやすい事
第五には大谷嘉兵衛(当時横浜実業界の第一人者)の経営する工場が全焼し、その再建地に静岡を選んだ事
この五つが静岡へ移動する大きな原因です。しからばその当時の静岡はどうであったかというと、明治三十六年に富士製茶は尾崎伊兵衛氏(静岡茶業の第一人者)と提携し、堀の内から静岡に本店をうつし、北番町(現在の厚生病院と厚生苑)に大工場を設立しました。また、現在の竹沢製茶(北番町)の場所に神戸の業者により神戸製茶(KK)が設立されました。石垣長右衛門氏(活動家で北番町、安西、茶町を茶業の中心にした第一人者です)は茶町に製茶委託問屋を新築し、小林市蔵氏も安西に荒茶委託問屋をつくりましたが内地向け問屋としては、水上房吉氏がタバコ販売を営業しながら店を持っておりましたのと、小山兼吉氏が内地問屋として存在しているのみで他の業者は、荒茶の横浜出しを主営業としておりました。大谷嘉兵衛氏もアメリカ商メーシー商会(通称アメ三)と共同して安西に工場を建設し始めたのを見て、ヘリヤ商会とジャーデンマゼソン商会は北番町に大工場を建設し、エブリル商会は社長が死去した為、支配人が富士商会と提携してその一室を借りその名もホキットニー商会としてお目見えしました。また、日本郵船株式会社(NYK) 社長近藤氏は日本共同製茶 (KK)を設立し、海野孝三郎氏(俗称井川の殿様)の鷹匠町にある東洋製茶(KK)を第一工場、藤枝の笹野工場を第二工場とし牧之原に第三工場を、そして北番町(現在の八雲製材の一角、後の吉川北工場の所)に大工場を設立しました。
この共同製茶(KK) は近藤氏が自社の船舶を清水港に入港させ輸出茶の大半をNHK (自社)に利用して貰う事と茶業の発展を期待してあえて茶業に乗り出し、明治四十年清水開港、日本茶輸出第一船として神奈川丸を寄港させた事は、静岡茶業に対し大ない光明を与えたのです。
この近藤氏と東洋製茶を創立した海野孝三郎両氏の事は多くかたられませんでしたが、海野氏は清水開港に就いても努力され、その財産の大半を茶業にそそがれいかにも俗称井川の殿様らしい姿でした。
また、尾崎伊兵衛氏は静岡人として一人、富士製茶の本社を静岡に移らせ、北番町を茶業の中心地とさせた第一人者といえます。
この尾崎氏は安西三丁目に尾崎国産社という荒茶委託問屋をも開設し茶の集荷に全力をつくされた事も石垣長右衛門氏と共に静岡茶市場開設の第一人者といえます。
さて、外商が静岡に移動したのと同時に静岡の茶業者はどうであったかをかえりみると、横浜出しをしていた吉川國太郎氏(覚次郎の養父)、成岡甚之丞氏(現三和製茶の成岡浩次郎氏の実父)が再製釜をすえつけ再製工場を設立し、横浜で輸出荒茶問屋明石屋の吉永氏は片羽町の富豪伏見一家と締結し、材木町に伏見製茶を創設し、市内茶業の水上、小山等により駿府製茶が安西に、上田一家が北番町に、静岡製茶、森再製の静北製茶を北番町に、寺町には佐瀬佐太郎氏が再製工場を、そしてバスケ茶専門に安西に浜佐商店、川熊商店、また釜茶の上茶専門の赤沢屋、横浜から移転して来た岡野屋も釜茶再製を始めましたので再製工場を持たず再製茶を仕入れ、外商ハント商会、ゴットリーブ商会、プール商会、古谷商会、西村商会、シーグフリド商会などに火見本により再製茶の取引がされたのです。
再製業者は静岡のみでなく、郡部で榛原のカネ万中村製茶部(中村円一郎経営)、有原商店、庵原郡の石貝製茶、藤枝のカネ三西野商店、笹野徳次郎商店、森町製茶、掛川の堀製茶、小笠郡のマル共揉切製茶などが釜茶を主体に藤枝のカク二鈴幸、マル花花沢、駿岡社、金谷のサス多柴田などがバスケ専門、板山のマル三製茶、ヤマニ製茶、島田のカネ福商店などがアイノ専門店として静岡の輸出商社と取引をしておりました。
当時の静岡に於ける荒茶取引は荒茶委託問屋を通じ多くの商社は内サイトリが委託問屋から見本を集め外商を始め大再製業者の取引は現金取引でした。
当時の静岡の荒茶問屋は、尾崎国産社、マル八国産社、水上委託部、カクサ渡辺商店、マル玉武田、カク二鈴幸、マル辻辻安吉商店、カネ町町田商店、野崎商店などが主なる問屋でした。
そしてその他に神戸から移転した宇和商会、園部商店がありました。
静岡へ出張し、再製業者とコネクションができれば、事務所を持つことができ、仕入れが出来る事がアメリカの茶業者に知られたので、横浜時代には見られませんでしたゴットリーブ商会、フォルヂャー商会、シーグフリード商会、ピーターソン商会、プール商会及び日本人商社として古谷商会、西村商会などが開業し、静岡市北番町が日本茶貿易の中心となったのです。
そして各外商の店主は四月中旬から来日し、仕入れ茶の準備にかかり、新茶から仕入れを始め十月迄の半年間は静岡に滞在しておりました。
商談の方法は、横浜時代と変らず各貿易商は居付き仲次人を置き、その仲次人が荒茶問屋を回り、買入れ希望の見本を荒茶問屋に持参し商談を勧めたのです。
横浜時代と違う点は、外商の内荒茶を専門に仕入れたのは再製設備があったヘリヤ商会、英一、日本製茶、富士製茶の四社だけでその他の商社は、再製業者から再製茶の仕入れ専門でした。富士製茶の一部に店舗をかまえたグロー氏が、明治四十四年北番町の神戸製茶跡(現在の竹沢製茶と静岡茶商工業協同組合冷蔵庫の場所)を買入れホキットニー商会を設立し、再製茶の仕入れを始めました。
<<ここで笑話をひとつ>>
横浜から静岡へ市場が移動した時、ひとつの困った事がありました。それは、当時静岡には洋風のホテルは一軒もなく外商の社員の住居の問題です。当時西草深方面は貸家が多くありましたが、トイレ、風呂、台所の設備が異なり、これを改造するのに静岡の大工さんは無知でしたので、大工さんは横浜に出張見学して改造し、また当時水道がなかったのでポンプでタンクに水を入れるポンプなどを横浜から購入して、間に合わせ今の若い人の考えられぬ苦労をしました。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
- 2026.10.22
- 17:08
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貿易茶物語 第3回 輸出茶の種類と、値段・取引の仕組み
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第3回
貿易茶物語 第3回
輸出茶の種類と、値段・取引の仕組み
大石 鵜一郎 著
値段のたてかたと取引状況
さて、ここで取引の方法、売行きについて当時の状態を述べる事にします。
その内容は、
釜茶 PAN FIRED
篭茶 BASKET FIRED
アイノ AINO
粉茶 SIFTING
フワ FANNING
{
七割
三割
一割 三分 位の割合でした。そして最低茶はアメリカ政府が規定し、これをUSAガバメント、スタンダード(標準茶)と称し、この標準茶はよく取引されました。
輸出業者により再製茶の値段は、和斤(十六メ)、百斤百ポンド(約十一メ七百匁)の二種で一例を言うと、ヘリヤ商会、ハント、ジャーデン、日本製茶(メーシー)などは百和斤値段であり、ホキットニー商会、ゴットリーブ、シーグフリード、古谷、西村両商会などは百封度でヘリヤ、ジャーデンは荒茶を主体に仕入れをし、取引数量は釜茶は二万封度(ポンド)が基準で八千封度以下の取引は特殊茶以外ありませんでした。標準茶は八万封度の取引がありました。そして火見本取引でしたから売り約五日後が受渡しの大半でした。
篭茶(通称バスケ)は、志太茶が一番適していたので藤枝、島田の輸出再製はバスケ、アイノを作り静岡の業者は大体全部が釜茶の製造業者でした。
そして、各再製業者は取引先が大体きまっており、一例を言うと吉川はゴットリーブ、ハント商会が主なる取引先。伏見製茶はゴットリーブ、ホキットニー商会と言う様な取引状態で為替相場が取引値段に大きくひびき、当時(明治末期から大正時代)は円安の時が多かった関係からヘリヤ商会など外商の荒茶買入れ値段が大体その年の茶相場を造りました。
茶代金の支払いは外商の荒茶仕入は着荷見本と照合し、現金払いで日本の再製業者の内でも伏見製茶や駿静製茶などは、外商と同じ支払い方法でしたのでヘリヤ商会メーシー(日本製茶)、富士製茶、伏見製茶などの荒茶委託問屋を介して仕入れする値段がその日の荒茶取引のその日の相場の基本となりました。
荒茶貿易取引に関しては、直接取引はなく仲介者を通じ行なわれましたのは横浜時代と同じくアメリカ、カナダのブローカー制度が取り入れたのであります。
この取引の方法がアメリカ(カナダを含む) 輸出茶に関しては日米開戦迄連記した外商及び仲介者には変化はありましたがつづきました。
今日この対米日本輸出をかえり見ますと、明治末から大正十年迄が日本茶輸出の最盛期であったといえます。
貿易茶輸出商社の内で荒茶から買付けしたヘリヤ商会、英一、富士製茶、日本製茶以外の商社は釜茶、バスケ茶、アイノ茶の仕上茶を買付けましたが、各社各自の形状、品質に相違がありましたので、注文の茶を再製業者に見せ、それに適する製品の見本を造り商談を進めました。見本取引でしたので荷物の受渡しには、早くても一週間位かかり、再製業者は注文された茶が出来上りますと、その現品の荷口見本を買方に照合して貰いOKを受けて、荷渡しをし、商社の中には、それを再製業者に依頼し本造りとして清水港の指定回漕店迄運搬し、そこへ商社の社員が行き荷物の本拝見をし、荷物の受渡しが完了する仕組みでした。
代金は荷物受渡しが終わると、どの商社も現金支払いでした。
取引の数量は、釜茶では最低が一口八千封度(三千七百㎏)が最低で、大体二万封度位が一口の単位でしたが中には一番茶、二番茶を混合した品の注文があり、私の知る限りでは釜茶三千箱(八十封度)入り、現在の単位でいうと約九万キロの注文が毎年発注されその取引をした事が記憶にあります。
アメリカ・ガバメントP・F(標準茶即ち輸出最下級品)などは一回の注文が八万封度位の取引は度々あり、一度の取引は現在の内地取引とは格段の差があります。
バスケ茶、アイノ茶については、釜茶上り取引の数量も小口でした。
従って、再製業者は、取引が火見本商談の関係から荒茶の仕入れに大きく関係がありますから、売込みには各再製業者共主人自らかそれに変るべき人をして注文の具合い、同業者との値段のつれ合いを見る事が最も必要な事で各店とも特に力を入れました。
一方、買い方も仕上げ茶には特殊の品もありますので、各商社は再製業者を指定しました。
一例をいうとゴットリーブ商会への常連としては、ヤマ吉吉川本店及び北工場、伏見、カネ万中村、ヤマ二成岡、江尻の石貝、バスケ茶で藤枝のカク二鈴木、焼津の服部、古谷商会では日本共同製茶、後の吉川北工場、赤沢屋、ヤマ二成岡、藤枝のカネ三一言弥太郎氏、サスナ笹野徳次郎氏、ホキットニー商会には駿静製茶、カネ久上田、ヤマ吉吉川北工場、静北製茶、ヤマ二伏見、ハント商会にはヤマ吉吉川が主体取引でした。
北番町、安西通りが貿易茶取引の中心になりましたので五月から十月迄の半年間は各工場に雇用された人員も、五千人以上が毎日朝の五時半から忙しい時は夜十時迄出入し、貿易茶の清水港迄の運搬は馬力車を主体に使用しましたので、馬力車に使う馬が北番町の各所につなげられていた風景は、現代人には想像つかないと思います。
又、当時の静岡市の経済界では、輸出茶の取引額が産業トップでありましたので、その方面でも茶業様々で茶業者は幅をきかせたものです。
その一例として外商が四月に来静する時と十月に帰米する時にはその取引先の業者がその商社の人も接待し、歓迎会、送別会を当時の一流料亭、浮月か求友亭で催し、各人が会費五円づつ持ち出し宴会をひらきました。
当時の宴会の会費は県庁などの宴会費が一人一円五十銭位でしたから、いかに茶業が盛大であったかはこれでも知る事が出来ます。
その当時から昭和十年頃迄の北番町一帯の雰囲気と現代の北番町一帯の状況とを比較すると感無量のものがあります。
輸出茶の種類
アメリカ、カナダ両国に輸出された茶は、当初から日米戦争が始まるまで変わりなくその種類は、
釜茶 PAN FIRED 輸出量割合約 60% 推定
篭茶 BASKET FIRED 輸出量割合約 25% 推定
玉茶 NIBS 輸出量割合約 少量 推定
フワ FANNING 輸出量割合約 少量 推定
粉 SIFTING 輸出量割合 一二% 推定
でした。
他にアイノ(AINO)がありますが、横浜時代には篭茶の内に含まれ、静岡時代となりAINOの名称がつけられたのです。その製品の形状は今の内地向け仕上げを綺麗に仕上げた茶でした。
しかも明治四十三年アメリカ、カナダ両国で着色茶の輸入の禁止令が発表される迄日本茶の輸出も支那茶と同様着色されており、その着色の色工合いも各外商が特色を持っておりました。その着色の原料の配合は、横浜時代には主に支那人が受け持っておりましたので、静岡の再製業者の設備は完了しましたが、その点が営業上の一つの難点でしたが、業者が努力して横浜外商に勤めていた熟練仕上者を半年契約で雇入れ、この連中から各再製業者が習いました。
着色茶の輸入禁止
米国が着色茶の輸入禁止を発令したのは、茶に就いては、当時の支那茶の着色がひどくなり、茶をさわるとその手に色が残る着色茶が輸入され、人体に有害と判定し出された法令です。
勿論日本茶も着色されていましたが、支那茶程ではありませんでした。
この着色の原料は支那(現在の中国)で考案されたもので青粉(通称ウグイスと称した着色原料)と黒鉛を石膏と水に溶した中に混入し、薄切りしたものを寒中に日
アメリカとカナダは支那と日本から茶を輸入していましたが支那茶は産地が上海市場からはなれていた関係から着色茶が混入され、アメリカ、カナダで輸入禁止品が続出しました。しかし日本茶は不良品がなく、安心して取引出来るという事で輸出は増加しました。
そしてその年から輸出茶はアンペラ包装の外側へ一例ですが左の通り書かれたのです。
JUGUGEL ORE FOUND
NET
CHOICEST UNCOLORED JAPAN TEA
この表示で思い出す事は、貿易茶の取引の数量の基準はPFは八〇ポンド、B・Fは七〇ポンドでしたから、再製業者が売見本に数量を記入するに百箱と書きますと、八千封度という事になり、通例百とか二百とか売見本には必ず記入しました。
実話
静岡では県下の再製茶業及び荒茶を扱うヘリヤ商
ガラ機
乾して擦り、粉末にした鉱物性の着色原料でこれを再製茶製造の火入れ(つまり再乾燥)の時に茶に混入したのです。篭茶には黒鉛を使用しました。
この茶の原料は、皆支那(現在の中国)の上海から支那の商社が貿易茶外装用に使用したアンペラ及び籐と一緒に原料輸入しました。
原料が鉱物性でしかも微粉で少量の混入ですから茶の水色には影響しませんでした。米国はこの条例は茶ばかりでなくすべての食品の着色を禁止したのです。
この条例は明治四十三年の新茶前に発令されましたので、静岡の茶業者は茶期前の冬にこの原料を造ってありましたので、茶業中央会は検査所に命令して、貿易茶業者に日を定め安倍川の一カ所に集め流して結末をつけました。
今日なら沿岸漁民からの反対でこの様な放棄は許されない事です。
日本茶もこの禁止令にもとづき県茶業組合が検査部を設置し、厳重に取締り、また全国茶業会議所は各県会議所に命じ、着色料を全部回収し処理しましたので、着色による輸入拒絶は一件もありませんでした。
会などから回収した着色原料、石膏黒鉛及びウグイスと称する釜茶用の着色を安倍川に集め流しましたが、今なら公害だ何んだと問題になりましたが、当時はそれがなく用宗海岸から久能海岸まで一週間位海水の色が変った程でした。
着色茶の禁止により貿易茶は、アメリカ、カナダ両国での需要者が純無色の緑茶では、歓迎されませんでしたので、光沢を出す事が仕入側の希望であり、ここで新しく工夫されたのが再製工程で使用する所謂ガラ機により光沢を出す事が再製業者により考案され、釜茶は元より後にグリ茶の輸出が始まりました時には、ガラ機の必要性が一層高まったのです。
明治四十年横浜の工場が火災で焼失したのを機会に安西一丁目に日本製茶 (KK)を設立し、静岡市北番町が日本の貿易茶市場となったのは明治四十五年です。
ここで静岡県茶業界がこの様に新天地を迎え又、清水港が茶の輸出港として日本郵船(KK)、大阪商船、東
洋汽船を始め外国船迄もが茶の積込みの為清水港に寄港する事になりました事は余り知られていない事です。当時の日本郵船(KK) の社長近藤氏(後に貴族院議員となり国家の為につくされ伯爵になられた人物です)は、茶業を愛され明治四十年日本共同製茶 (KK)を設立され北番町に本社を置き、藤枝のサスナ笹野工場、牧之原の内田工場、鷹匠町の東洋製茶と北番町に第四場(戦前の吉川北工場)を建設し、直輸出と貿易再製を始め、日本一の船会社の社長が秘書渥美氏を専務として、古谷、西村両商会を支援し、又直接輸出も行いましたが、アメリカ取引に関しアメリカの商習慣を知らぬ為、ブローカーを使う事を知らずコンサイメントにて取引した為、損失したのと、静岡の茶取引が正常に行われている事を理由に三年目に解散し、東洋製茶と笹野は買いもどさせ、第四工場は、吉川覚次郎氏に売却し茶業からは手を引かれましたが、静岡の貿易茶業界及び清水港の発展につくされた業界のかげの功労者であったと思い、すべて書き綴った次第です。
そして、この売買により吉川北番町工場が生れたのです。
鈴幸、尾崎国産社、マル八委託、カクセ飯田、カクサ渡辺、町田と横浜から移転して来た明石屋などが大量扱う委託問屋でした。
新しい取引方法
時代は大正となり貿易茶の輸出増加に伴ない輸出向け再製業者の数も増加し、従って委託問屋も扱い数量が増加しました。しかしこの委託問屋の荒茶は各地の茶を合組して、見本をつくりますので、貿易再製筋の希望する品質、殊に水色、味に欠点がありますので、産地別の荒茶を貿易筋殊に大量仕入をするヘリヤ商会、英一、富士製茶など大手筋から希望する声が高まりましたのを第一に察し、静岡茶市場の発展にも役立つと考えて、地方の荒茶仲買商(当時の生産家は小規模で、交通関係から静岡市場まで小数量を持ち込む余地がありませんでした)は買入れた荒茶を直接交渉し、その見本を外商始め再製業者に取引する仲介をする販売方法がよいと考え決然としてこれを実行に移し、店員を小笠、榛原を主体に各地の仲買店を説得し、ヘリヤ商会その他の大手筋に売込み仲立したのが今日の斡旋商の始まりです。
一方製品の輸出は、清水港が次第に完備されるにつれ、船会社は全部といってよい程清水港に茶積み込みの為寄港する様になり、茶業王国として静岡はアメリカ、カナダに知られる様になりました。
そして明治四十三年からアメリカが食料品の着色禁止条例により茶の着色も不可能になり色沢をよくする為、業者は所謂ガラ機でよくする事を考案しましたのでこれを機会に貿易再製を開始した業者も増加しました。
又原料の荒茶にしても従来より色沢のよい、しかも味と水色のよい茶が歓迎される時代となりました。特に水色の悪い茶は、釜茶(PF)は勿論荒茶でも先ず水分検査で不合格になり値入れもありませんでした。
さて、静岡の市場が開設されますと同時に、県内産地の仲買いは静岡の荒茶委託問屋に出荷し、委託問屋が外商は勿論再製業者に売込み商談した形式は横浜時代と変わりませんでした。
当時静岡の委託問屋の主なる店をあげますと、茶町通りにサスカ石垣長右衛門商店(通称垣長さんといわれ、世話好きで偉大な人物で茶業の為に数々の功績を残した人で、その逸話は数々あります。)、水上委託部、カクニ
そしてこの仲買商が毎日静岡へ持ち込む荒茶見本を輸出商始め業者に製茶売込荷主代理人となって商談を進行させたのです。この新しい取引の方法は、従来の委託問屋から猛反対がありましたが、買い方をバックに、貿易と直接取引が出来ると歓迎されたこの取引方法を考えられたカク二鈴幸氏の功績は大きなものがあり、今日の幹旋業者の元祖といえます。
鈴幸氏は親分気質の人で、よく同業者の面倒を見、当時横浜、神戸の仲買店につとめた人が、茶の静岡にあこがれ来静し、昔の言葉でいうワラジを脱いだ人が多数おります。
イジュウ伊藤の先代及び後年静岡茶業界のうるさ方として知られた和波渉氏などがその内の一人です。
欧州戦争が始まりました大正五年頃になりますと荒茶製造機即ち精揉機、粗揉機などが改良され今迄水色が悪くて貿易に適しない地区の茶もよくなり、輸出の増加と共に静岡への茶の集散は毎年増加してきました。
一方鈴幸氏は伊勢(三重県) 四日市室山の当時日本茶を直輸出しておりました伊藤製茶部とコネクションをつくり、静岡県内の再製茶を一手に売込む契約をされたので、荷主代人の仕事を店員南城一六氏にゆずりました(この伊藤製茶部の輸出茶を一手にアメリカで販売したのが、BA商会をつくられた池田氏です)。
この南城氏が精力家でしかも榛原郡萩間の出身であった関係で牧之原及び小笠郡の南部と今の榛原町方面の仲買人と連絡を取り、当時外商で荒茶を一番多量に仕入れるヘリヤ商会と連携して、茶町通りを荒茶取引の中心地としたのです。
又水上委託部の茶方永野幸一郎、富士製茶の専属仲次であったカネ保半場の兄弟は金谷連合の看板で、掛川の榛葉貞作氏(今のマル福製茶社長の兄)、森製茶の居付き仲次であった青嶋松蔵、庵原出身の乾及び小長谷、マル八委託につとめていたハセ友、大浜氏などが荷主代理人として、各自店舗をかまえました。一方見付(今の磐田市)の市川米次郎氏が茶町に移転し店舗を持ち、浜松方面の生産家と連絡し、今迄荒茶や委託問屋一点張りでした浜松方面の茶の取引を荷主代人の手中にした努力は大きなものがありました。そして、亡父米次郎氏の片腕となり、荷主の応対、富士製茶への売込みはヤマ本市川といわれた程の商売熱心であった令息金吾氏は、今なお壮健で子息と第一線で活躍されております。仲次人組合も分離し荷主代理人組合を新しく組織して取引斡旋の先頭に立ち、静岡の荒茶取引は製茶売込荷主
(略称を代人組合と業者は呼びました)が店を利用する事が最も有効で、直接取引の商談が安心して出来るのが製造家一般に知られ、従って製造家が直接静岡へ売込みに来る基礎が確立されました。

出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
貿易茶物語 第4回 茶業王国・静岡の商人たち
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第4回
貿易茶物語 第4回
茶業王国・静岡の商人たち
大石 鵜一郎 著
静岡県購買販売信用組合
又、当時静岡県購買販売信用組合の支所が県下の町村に出来、日用品の販売をしておりました。その内小笠郡、富士郡など茶の産地にある支所は、静岡に於ける荒茶取引の状態を観察し、その土地の小規模の製造家の荒茶を集荷し、粉を除去して静岡への出荷を考え、最初はその製茶を直接貿易、内地の商店に売込む事を考えましたが、その計画は失敗に終わり代人組合員の店の数店を指定し、一般業者と同じ取引方法で代人組合員が斡旋取引をする事になりました。
しかし、この信用組合(略称を社の茶と呼ばれました)の出現が昭和十年頃に県産連茶業部となり、又、今日の農協となり業者と競争する今日の第一歩であったといえます。
それはさて置き、当時小笠郡笠原村マルカ農産、三栄社、大坂組合(現在の大須賀町)、佐束、土方、加茂(菊川町)、袋井市法多のマル豊豊沢、マル一菩提などの茶は、市場特に貿易筋では歓迎されました。
又、信用組合の組織で茶を取扱う支所は、静岡の近在でも有度信用販売組合、今の清水市当時庵原郡不二見村にも出来、又、東部では今の富士市のマル吉吉永、マル原原田、マル中中里などが出来、毎日盛期には一組合の静岡向出荷量が少なくて三千㎏、多い組合は五千㎏の荒茶を取扱い静岡へ出荷していたのは大正五年頃からでした。
しかし当時庵原郡第一の茶生産地庵原村(今の清水市)で製造された荒茶は、当地の仲買商マルヲ小杉商店、斉仙、斉清などの有力なる仲買商が牛耳っていたので県信連支所の進出の余地がなかったのです。志太郡の葉梨組合の茶も、特殊の茶で記憶にあります。
この社の茶の内でも、大坂マル大、佐束組合などの茶は、特に品質もよいのでヘリヤ商会など商館筋へ大半取引きされ、又、東部の組合の茶ではマル中中里組合の製品がよくバスケ向きに最適でしたので一流筋にすぐ取引されました。
この様に、組合の茶が多く集荷された原因の一つには荒茶製造機つまり精揉機、揉捻機の改良発展とそのメーカー、今の菊川町のマル松松下工場、藤枝の伊達、清水の高林、金谷の川崎鉄工などが考案し、その所在地の近所から売出し、購買販売組合と連絡をつけた事が、その普及に大きな力となりました。
しかしこの社の茶もその販路については、その土地の仲買商には販売せず、静岡の貿易筋を主体に大体全部静岡へ出荷されました。
この「社の茶」は、直接取引を希望しましたが当時外商のナンバーワンの荒茶を仕入れるヘリヤ商会は直接取引を断わり他の商社再製筋も従来の慣習に従う様勧告しましたので売込荷主代人に取引を委託する事になりました。しかし組合組織で数量も多いため、扱料を特別にせよとの申し出もありましたが、代人組合は扱料に甲乙をつける事は出来ないと断固これを拒絶しましたので一般と同一の扱料にて取引することになり組合は取扱いに荷主代人を二店指名されたのです。
この口銭問題で荷主代理人組合は従来より一層団結を強め、昭和の時代になっても一糸みだれぬ結束をし、荷主にも信頼され静岡へ見本だけ持って行けば取引は荷主代人が希望する店へ売買してくれるといわれる基をきづいたのです。
この組合の茶を茶業界では略して「社の茶」と称して貿易一流筋に売足も早く取引されました。その原因は従来の問屋筋が扱っていた茶と異なり、生産地特有の味と香りを持ち、しかも粉を除去してあったのが大きな原因です。
そして当時静岡に取引された地方の代表的な荒茶仲買店は、牧之原のマルア後藤、カネア絹村、カネソ藁科、ヤマサ栗田(現在牧之原で内地商として活躍)、榛原のヤマ三加藤、ヤマ田濱田、サスカ川村、金谷のマル三共同、太田、サスタ柴田、勝見屋、掛川の角替、原田、菊川町のカクト石川、マル木青木、初倉のカネキ河村、見附のキュウボン、日坂のサス太水野、横須賀のヤマリ土屋、相良町のヤマ二西川などと東部は庵原村の仲買人と当時の富士郡吉永村のマル三、他三〜四店と岩渕のサス三斉藤、焼津のヤマ上多々良商店などが荒茶仲買店として荒茶を静岡市場へ毎日大量持込むメンバーでした。
そして毎朝の取引の始まりは、ヘリヤ商会と一流貿易再製と値段の交渉に入る荒茶は、マルア後藤、カネア組村、カネソ藁科などとカネキ河村の茶が交渉の対称となり、その出来値がその日の相場の立値となりました。これはに貿易が茶の取引におおきな影響力を持っていたかをあらわすものであります。
そして当時の一番茶が盛期に入りますと内地問屋筋は、貿易がこの年の新茶をいかなる相場で建つかを見る為貿易筋の取引状況を見きわめて買付けを始めますので、盛期の最初は荒茶取引を四、五日間は見送る程貿易筋が茶の相場をつくったといえます。
当時仲買店が毎日出荷してきます数値は一店一口の荒茶の数量は一五貫目入りが五〇本から八〇本位で、それを荷分けして数店へ売る事は買方が承知せずいかなる大荷口でも一店へ商談をまとめましたので、値段の押合いには激しいものがあり、今日の様にその値段なら自店へも分けてくれなどと言う事はなく、売方もその様な事はせず代人も
「今日は自分の得意先の付け値が弱かったから」と綺麗にあきらめました。
話は前にもどりますが、貿易が横浜から静岡へと変り、取引も貿易茶再製業者が出来、輸出商は再製茶を仕入れる様になりました事は前述しましたが、アメリカへは釜茶、篭茶の他、玉(NIBS)、粉(SIFTING)が輸出されました。しかしその内の粉は内地需要があり、値段の関係で貿易筋が粉のみ買うという事は困難でしたので、釜茶取引の際、釜茶取引数量の一割のSIFTING、一分のNIBSを今日でいうだき合せで適当の値段で取り引きする外商もあり、不足分は粉だけの取引もあり、相当量のSIFTINGが輸出され、為替関係の関係で内地向け粉茶迄取引された事もありました。
次にアメリカ、カナダへは下級品の輸出品も見のがす事が出来ません。
アメリカへは、下級品にUSA、ガバメント、ダードの見本がありこれを標準茶と称し、アメリカの輸入港で着色の有無と品質の検査があり、品質が標準茶以下ですと入荷拒絶、逆送という事になる規定がありました。
最下級品つまり標準茶が米国で需要があり昭和の始まり迄は特にその注文があり輸出商は大口に買付けました。しかしその現物の受渡しには、標準茶の規定がありますので、仲々むつかしい物がありました。
茶業王国静岡
明治の終わり四十五年から大正二年になる頃にはハント商会、横浜からゴットリーブ商会、ピーターソン商会、フォルジャー商会などが静岡に店を持ち再製茶の仕入れを主体にしました。特にゴットリーブ商会は安西の森再製の事務所に店舗をかまえ、ヘリヤ商会につぐ多量仕入れでしたし、多くの話題を残しました。
話は前にもどりますが、ホキットニー商会は富士製茶に一年間店を持ちましたが、神戸製茶が廃業しましたので、その工場を買い取り再製茶の仕入れを主体に荒茶も少々は買付け再製加工もしました。
かくして日本茶の輸出は横浜から静岡へうつりました。そして横浜時代と異なりました点は茶の再製が機械化した事と再製業者の出現により外商が工場を持たず再製茶の仕入れにより製品を買入れ営業が出来るという点が、
取引上大きな相違で、横浜名物居留地のお茶場が姿を消し静岡が日本の茶市場となった次第です。
かくして静岡は日本一の茶市場となりましたので静岡市経済の中心は北番町、安西の一角に移り、しかも外商の各商社は小売用の半封度から一封度の袋詰めまで包装する為、日々四、五千人の茶業職工が北番町方面をにぎやかせ、また静岡茶のみにては数量不足のため、伊勢、奈良を始め九州、四国の茶も静岡に集まり茶業王国静岡は立派に成長しました。
静岡からのアメリカ(カナダを含む)への輸出は、明治四十年頃から第二次世界大戦までつづき、殊に明治四十一年頃から大正時代まではその数字がしめす通り茶は重要産業としてしかも本県にとっては茶あってこそ経済が成り立ったのです。
荒茶取引の状態
荒茶を主体に取引したヘリヤ商会、富士製茶、日本製茶(メーシー)を始め各輸出業者は荒茶委託問屋から各商社の専属の仲次人を使い見本を集め、これを仕入れして再製したので生産者との直接取引はごく稀であり、その委託問屋は次のとおりです。
サスカ石垣
水上委託部 (主として遠州茶を始め全国茶・再製茶)
マル八国産社 (主として遠州茶と伊勢茶)
尾崎国産社 (近在の茶と浜松茶)
カクセ飯田商店 大石屋 (本山茶)
カク二鈴幸商店 (遠州茶、近在茶及び各県茶)
海老名商店 (庵原、富士茶)
(遠州茶及び他国茶)
サスボシ小林商店(本山茶、ワラシナ茶)
マル千川口商店 (ワラシナ茶)
カク二渡辺商店 (北街道筋の茶)
野崎商店 (安倍筋の茶)
(近在茶)
などが主なる荒茶委託問屋でした。九州茶はマル宇宇和、園部商店でした。
ピーターソン商会、フォルジャー商会、古谷商会などで再製業者との間の取引は火見本により各商社の好みにより再製業者は造り、原荷取引はごく稀でした。
そして各社は特殊注文もありました。主なる取引先は選定され、一例をあげますと、ゴットリーブ商会は吉川、伏見、堀、石貝、吉川、北工。ホキットニーは伏見共同製茶(後の吉川合名北工)、駿静、静北。ハントは吉川などとまず注文茶の仕入れをし、再製業者は注文をうけて荒茶の仕入れを選定しました。
再製茶取引の状況
再製茶を仕入れの主体としたのは、ゴットリーブ商会、ハント商会、プール商会、ホキットニー商会、シーグフッド、ピーターソン商会、フォルジャー商会、古谷商会などで再製業者との間の取引は火見本により各商社の好みにより再製業者は造り、原荷取引はごく稀でした。
そして各社は特殊注文もありました。主なる取引先は選定され、一例をあげますと、ゴットリーブ商会は吉川、伏見、堀、石貝、吉川、北工。ホキットニーは伏見共同製茶(後の吉川合名北工)、駿静、静北。ハントは吉川などとまず注文茶の仕入れをし、再製業者は注文をうけて荒茶の仕入れを選定しました。
取引の状態
再製茶の取引は前に述べました通り取引の過半数を占めました。そして、荷渡しは三日後位から十日間が普通で、一回の取引は少ない品でも八十封度(通称百箱)で、大体普通取引は二万封度一口が定例でした。
バスケ茶、アイノ茶は釜茶に比較して工場設備も小さいので、一口は五千封度程度でした。
ゴットリーブ、ホキットニー商会は大量に買付ける時は一日に十五万封度から三十万封度買付ける日が度々あり、従って荒茶相場にも変化がありました。
そして、値段は一番茶売初めが五十円(百封度)位から始まり三十五円程度の品が一番よく取引され、標準茶(アメリカ政府指定最下級品)は二十円程度で、粉茶(シフティング)は八円位が当時の平均値段でした。粉茶は、全部一封度入袋詰で輸出されました。他に玉茶(NIBS)は七、八十円で取引されましたが、数量は製品が少なく少量でした。
また、輸出茶の販路も外商の手により拡張され日本茶の生産の二分の一以上が貿易に向けられ政府も外貨の獲得に大きく貢献しますので奨励しました。
明治末期から大正の終りの頃までの輸出量は増大し、茶業全盛時代がつづきました。金額こそ、生糸、羽二重、機械製品などに比較して少額でしたが、茶は肥料代をのぞき全体が生産家に入りますので、農家としての収入は他の工業と異なり静岡県の各産地はめぐまれ静岡県財政に大きく寄与されました。しかもその取引の中心地である静岡市の北部(茶町、安西、北番町)方面は五月から十月末までの茶期における繁盛は、見る可きものが多数ありました。
次にこれは参考までに述べるのですが、当時の各再製業者加工再製費は平均一メ匁二円五十銭位が見込まれ、荒茶を釜茶に再製しますと、荒茶の七半から八割で製品化されたのです。そして当時の職工さんの日給は男子が一円五十銭が最高で、女子は五十銭(日給)が最高で就業時間は午前六時から午後五時までが通例でした。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
- 2026.10.22
- 17:08
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貿易茶物語 第5回 三つ手の商談・機械化・静岡駅での販売
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第5回
貿易茶物語 第5回
三つ手の商談・機械化・静岡駅での販売
大石 鵜一郎 著
三つ手を打つ
茶業者間の取引成立は、商談がまとまりますと売買双方が三つ手を打ち合い、商談の成立を示し、売買契約書などは一切なく、外商もこの習慣を承知し、茶の取引はその数量の大小を問わず、この手を打つ事により取引についての問題は起こらぬのが茶業取引の特殊の取引方法です。
この三つ打つ事は、どの時代から始まったかと言うと、東洋人、特に支那(中国)の一部では昔からあったと言う事で、日本では明治維新前に魚類などの取引に用いられた記録がありますが、明治となり横浜に生糸、羽二重の市場が出来、その商談は現在の如くスピーカーもない時代でしたので、算盤を使い仲買人と買主とが三つ手を打ち合い商談が成立した事を他人に知らしめる為に行なったに始まります。
この商談の方法が対米輸出茶の横浜市場が始まりました時から今日迄つづいており、手を打つ事により商談の成立の確約が出来て、売主は現物を買主に荷渡しし、買主は受取る責任を持ち、破約は許されず、実行されています。
一例を言うと外商ヘリヤ商会、アーウィン商会などでも、売買契約書などは発行せず手を打って現物が受渡ししないなどの事故はなく、この点茶業者の仁義といいますか茶業取引の特徴といえます。
荒茶製造の機械化
県及び静岡茶業会議所の奨励と生産家の自覚により茶園面積は拡大するのに従い、摘取り人の手が不足をきたしたので茶バサミが考案され、従って大量生産にともない精揉機、揉念機が松下式、伊達式などと考案、改善され、荒茶の生産と荒茶の形状に大なる変化がありました。再製の方法も変わりましたが、最初の内は茶園が鋏刈りに適せず、茎茶の混合の多かった欠点があります。茶園の方は鋏刈りが適する現在の茶園にかわり大正末期からは棒取り機も発案され製品の質も向上しました。一方、茶の生産も茶園面積の拡大と荒茶製造機の発展により荒茶製造業者も規模が大きくなったのと同時に鋏刈りが次第に普及されてきました。
また、内地の茶の需要も生活水準が上ってきました関係で茶の使用量が増加し、内地問屋も販路の拡張に最善の努力をした関係で、扱い量は年々増加の傾向がつよく成りました。
荒茶製造機の改良進歩により今迄水色が悪く一般に好まれなかった土地の茶が機械化により水色がよくなり、一人前の茶となった事などは機械化による恩恵といえます。
内地問屋は、一例をあげると静岡における水上、小山、金子、藤枝の藤栄、西野、榛原のカネ吉大石など貿易筋商社におとらざる数量を扱う様になり、大正五年頃からは一番茶の初期は内地筋が相場をつくりました。
大正十一年になりますと荒茶製造の機械化が進み、機械製の荒茶が出始めました。
その第一は相良の今村製茶工場の製品を南城商店の手によりヘリヤ商会に商談したのに始まり、地方仲買人も機械製の荒茶を合組に使う店が増加してきました。又、精揉機など仲茶の機械の急速な改良と同時にグリ茶の製法も機械化し精揉機を使わず、ガラ機による製法が考案され、それが実行され特に庵原郡の生産家がその研究に熱心でしたので、グリ茶が商品化されたのです。そして、ソビエトは領土の一部で緑茶(グリ)を常用していましたので、その茶を中国から輸入していましたが、日本でもグリ茶が生産される事を知り、大正十四年にアーウィンハリソンホキットニー商会に試買を委託し、商談が成立しました。
アーウィンハリソンエンド
クロスフィールド商会の出現
アーウィンハリソンエンドクロスフィールド商会が来静し、支店を静岡に開店することになりましたのを静岡の茶業者は知らず、スキート氏をゴットリーブの一社員だと思っておりました。
スキート氏は、茶期中ゴットリーブ商会で仕事をしており、茶期間在静され、十一月帰られました。そして、ゴットリーブ氏もその年までは毎年十月に帰米されるのでしたが大正五年には十二月迄在静されましたので、出入茶業者は変だと思っていましたが、ゴットリーブ氏が帰米されると入れ替りにスキート氏が再来され、当時ゴットリーブ商会と一番取引の多かったヤマ吉吉川合名を突然通訳もつれず一人で訪問したのです。私は少々会話が出来ますので、北番町工場からすぐ本店へ来る様にと電話があり、行きましたらスキート氏が吉川御大と武田安太郎氏と三人でおられたのには驚きました。
武田氏も私も、スキート氏とは知り合う仲でしたので、スキート氏曰く篠田(ゴットリーブ商会の通訳)を話があるから呼んでくれとのこと故、吉川御大の命令で武田氏と二人で篠田氏を呼びに行き同道して店に参りました。そこでスキート氏は帰米に見せかけてゴットリーブ氏の帰米を上海で待機していた事と、ゴットリーブ商会を買収済の事実と、明年からアーウィン商会(略号)が来静し、工場を建設し支店を開店する事を告げ、吉川御大に建設開店の一切を依頼協力を求めたのです。
ここで吉川御大は当時の業界の長老で世話好きの石垣長右衛門氏に土地と工場の建設を依頼し、同氏も茶業の為ならと自己の末広町の土地に(現ロイヤルホテルの隣)倉庫、荷造所、事務所を昼夜兼行で四ヵ月で落成させ、アーウィン、ハリソンクロスフィールド商会が、八年四月にAPアーウィン氏とマッケンジー夫妻とスキート氏を同伴来静されたのが日本進出の第一歩です。
そして来静された翌々日には、新事務所で買付けをするから見本の提供を昨年迄ゴットリーブ商会に大手取引をしていましたヤマ吉吉川本店、吉川北番町、ヤマ二伏見製茶、カネ万中村、藤枝のカク二鈴木、焼津のマル合服部商店などに求めましたので、当時吉川本店の外交係は武田安太郎氏、伏見製茶は吉永孝三氏、カネ万は中村来吉氏、吉川北番町は私でした。そして、カクニ、マル合は店主自らが見本持参し、一方アーウィン商会は前年から来静されていたスキート氏が買付け主任だと皆が考えていました所、意外にもマッケンジー氏が見本を見て、値段を聞き、第一回の取引故、ワンプライスの値段を売方も出し、マッケンジー氏はOKされ、取引は円滑に成立しました。又、スキート氏は我々をマッケンジー氏に紹介されただけで取引にはその後も一切関係しませんでした。
マッケンジー氏は再製茶の買入一切を助手に森再製(安西一丁目)の仕入主任であった青木氏を使い、初年にかかわらず約八百万封度の仕入れをされました。静岡の名誉市民に後年推薦され、一般市民にも親しまれたマッケンジーの奥様も一緒に来静され、店で毎日アメリカ本国への通信を一切されており、その勤務振りは今でも目に残っております。
そしてその翌年からは、マッケンジー夫妻のみが来静され日米戦争が始まり、外国人の資産凍結が発令される迄営業をつづけられ、最後は大谷の御宅に軟禁されアメリカ商として最後の船で上海廻りで帰国されたのです。静岡に来朝されたアメリカ商の内で、アーウィンハリソンクロスフィールドはその組織が一番大きく、日本茶以外に台湾紅茶、セイロン紅茶、支那茶など茶と名のつく品は全部取扱われていた商社で、その点、荒茶を専門に仕入れ、自己再製し、静岡人に親しまれた個人経営のヘリヤ商会などとはその組織に大きな相違があった事をこの機会に付言します。
このアーウィン(略称)商会も年々取扱いが増加するに伴い、工場の拡大が必要となりました時丁度、北番町英一、ジャーデンマゼソン商会が日本茶の営業を廃止し、その工場が空きましたので、大正十二年移転し、再製設備もありましたので、特殊注文の荒茶も少々は仕入れられ、その輸出量は他の外商全体の仕入量とほぼ匹敵する取扱いをしたのです。
静岡茶の静岡駅にて販売
大正十年吉川合名の社長吉川覚次郎氏は、長老石垣長右衛門氏とはかり、煎茶一封度入り缶詰を茶業宣伝のため、静岡駅内売店及びホームにての立ち売りを計画し、駅の許可を得、立ち売りは東海軒の弁当売り人に持たせて列車の着くごとに売りさばきました。名称は静岡茶駅売販売(KK)とし吉川氏が社長となり、輸出茶再製業者の有志を以って設立されました。工場はサスカ石垣の工場の一部を借り、容器は普通の丸缶と異なり長方形の角缶でブリキ印刷されて売出した事はお茶の宣伝に大きな効果がありました。
当時ブリキ印刷の缶は茶業界では初めてでした。この印刷缶の製造所は東京でも二、三カ所しかなく、著者が東京の鉄工組合長と懇意である事を吉川社長が知っておりましたので、私に同氏に紹介をたのみ印刷缶の製造所に行き、一万個を注文する事を委託されましたので上京し発注しました。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
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貿易茶物語 第6回 外国商社と代理人・世界へ広がる日本茶
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第6回
貿易茶物語 第6回
外国商社と代理人・世界へ広がる日本茶
大石 鵜一郎 著
外商の変化
茶の輸出が横浜から静岡へ移動して十年余を過ぎその間に世界第一次戦争がありました。十年には戦争は終結しましたが、その影響で世界の地図も変わり、米国経済界にも変化があり、茶業者にも変化があり、中でも英国人経営のジャーデンマゼソン商会(英一)とハンド商会は日本茶の買付けをやめ、したがって来日せず静岡の工場も閉鎖されたのを始め、ピーターソン商会、フォルジャー商会も来静せず、貿易筋再製業者は一抹の淋しさを感じました。
しかし、ヘリヤ、アーウィン、ゴットリーブ日本製茶(メーシーを含む)、富士製茶、村井貿易(古谷、西村両氏が死去のため、その地盤を引きつづき古谷西村商会の支配人であり、アメリカ通であった本間義三郎に茶の営業を一任し、茶業界に足を延した商社です)が前年以上の取引をし活気をとり戻しました。
そして取引の中心はアメリカ、カナダ両国への貿易が相場の中心でありますが、内地の需要も年々増加し茶業の中心は静岡である事には変わりありませんでした。
さて、ここで大正十年頃から静岡茶業界の状況を顧みますと第一貿易筋では世界第一次戦争の終結にともない世界経済界の変化に大きな影響がありました。
第一に世界経済の中心がイギリスからアメリカにうつり変る実状となった事と、今迄海運界に君臨していったイギリスが、米日船舶業者のめざましい進出により、その地位が侵食された事で特に日本の海運界の日本郵船(KK)、大坂商船(KK)、東洋汽船の三社の進出には目をみはるものがありました。
従って、アメリカ茶業商社でもその影響を受け、英国人経営の英一番(ジャーデンマジソン)、ハント商会などは日本茶の直接買入れをやめ、ピーターソン商会、フォルジャー商会なども静岡での買付けをやめた一方、アーウィンハリソン商会は英一番の跡へ店舗をうつし、そして間もなくホキットニー商会と合併し、仕上茶と荒茶の再製も始めたので、外商で荒茶を仕入れるのは、ヘリヤ商会とアーウィンホキットニー商会の二社と、仕上茶専門に仕入したシッグフリード商会と富士製茶が貿易の大半を占める時代がきました。
代理人組合
私も大正十一年荷主代理人組合に加入させて貰いました。又、榛原町出身のマルヤ飯田氏も茶町に店舗をつくり加入しました。
当時の荷主代理人は仲次人と同じく茶業組合から身分証明の鑑札をもらい、店員には平素必ず持参する事に定められていました。
そして斡旋料は一貫目三銭で居付き仲次との配当は四分六で各社の専属仲次は委託問屋の払う口銭が一銭でしたから荷主代人の手から取り引きする方が得であった事も荷主代理人に有利に展開したのです。そして製茶売込荷主代理人という名称が長いので茶商間では代人という名称が使われました。
なお、余談ですが製茶売込荷主代理人産みの親のカク二鈴木幸圭吾氏の孫にあたる方が、最近まで茶市場に勤務されていた鈴木幸一良氏で、昔を忘れず籍を現在の斡旋組合に置かれ祖先をうやまう心境は立派です。
古谷、西村商会も明治貿易となり間もなく、当時の実業界の大手村井貿易(KK)と変り三井、三菱、大阪の岩井商会なども茶の輸出に大きな感心を持つ様になった時代です。
大正十一年から昭和になります間に貿易筋の古谷竹三助氏の死去で村井貿易は廃業し、池田本間商会となりシーグフリードシュミット商会、フォルジャー商会、ピーターソン商会などの外商も姿を消し、伊勢の伊藤製茶部が英一番を借り受け貿易を始めました。世界第一次戦争の影響がアメリカ貿易にも大きく影響し、そのメンバーも変ったのです。
米国の経済界で物価が下落し、一方内地も不景気風が吹いた関係で茶の相場も下落しましたので代理人組合も協議の結果、一時斡旋料をメ当たり二銭五厘として業界に協力しました。
関東大地震
大正十二年関東大地震により東京、横浜は全焼の災害を受け、それ迄東京以北すなわち関東、東北一帯と北海道を主体に取り引きしていた東京の製茶問屋も全焼し、その在荷も焼失した事は誰もが想像しなかった事です。この大地震の発生した時私は店で(三番茶の末期でした)牧之原のカネソ藁科という仲買店主と値段の交渉の最中で、ソロバンを持って相対していた時で、持っていたソロバンを落し、店にある見本缶は勿論すべて倒れる始末で、家から皆飛び出し電信電話は不通となり、余震を受けながら一夜を一番町小学校の校庭であかしました。現在東海地震を予想し、あらゆる施設をしておりますが、関東大地震を身に受けた人は皆完全防備の必要性を感じています。
この大地震により国家も内閣が変わる程でした。九月になり茶の需要期に入りましたが、東京の茶問屋もその建直しが困難であり、東京の問屋を通じ取引のありました関東、東北から静岡を始め県下の問屋筋に照会、発注があり静岡の内地問屋は、新しい販路が開かれたのです。そして問屋も又、この機会を利用して、販路の拡大に努めた事は、静岡の内地問屋が内地取引の中心となっている一つの原因と思います。
グリ茶
九州嬉野の近在の旧農家の庭先に、現在でも楕円型の釜がすえつけられているのを見かけます。
この釜が明治以前からその土地で栽培されていた茶樹から茶葉をつみとり、そのまま釜に入れて焙じ、これを精揉機にかけず手でまるめて仕上げたのが、グリ茶の始めです。
この製法が九州の一部に始められ、これをその土地の人々が家庭用の飲み茶に使い、その伝統が現在迄つづき、製法は改善されましたのが現在嬉野の釜炒茶として特産品になっているのです。
この釜炒茶を煎茶と同じく蒸して製造する事を考えたのが九州で考案されたグリ茶の始まりで、この製法の方が多量に出来、しかも一番茶の始まりから製造し、味も伸茶より濃いので九州人の好みに適したのです。
しかし明治時代にはその産額が少なく、全部土地で消費されましたので、貿易茶が横浜市場の時は当時の横浜の荒茶委託問屋の仕入帳を見ましたが、グリ茶の仕入れは記入されていません。
従ってグリ茶の貿易への取引は大正時代からといえます。
大正六年当時静岡外商の仕入でトップクラスで、輸出茶商間の人気者でもあり、静岡茶に大きな理解者であったゴットリーブ商会主が例年より早く二月の上旬に来静され、もっとも取引の多かったヤマ吉吉川覚次郎と極秘裡に会談され、グリ茶見本を見せ、静岡茶にてこれに近い茶の製造を依頼し、相当の数量を注文する事を打合わせたのです。
そこで吉川氏は、不二見組合(現在の清水市)と堀の内(現在の菊川町)の二工場の主任と相談し、一番茶、二番茶のグリ茶の製造を極秘の内に契約し、これに釜茶(PF)の小型、及び改良茶をブレンドした茶でゴットリーブ商会と契約したのです。数量は、極秘でしたので適格にはいえませんが、約四十万キロ位と思います。この取引はゴットリーブ商会が取引したのではなく、この前年にアーウィンハリソンエンドクロスフィールド商会が、ゴットリーブ商会を買収し、この取引はアーウィン(略称)商会のゴットリーブであった事が取引後、判明したのです。
この取引がグリ茶の本格的取引の最初といえます。そして、その翌年つまり大正七年にアーウィンハリソンエンドクロスフィールド商会のアーウィン氏がマッケンジー氏を同伴来静、ゴットリーブと手をきり、来静して店舗を新築、再製茶の買付けを始め、グリ茶も前年程の数量迄は買付けませんでしたが、多少買付けました。この時のグリ茶は、今考えますと欧州第一次戦争によりアフリカ方面に緑茶が不足していたので、アーウィン商会がアメリカを通じその方面に代用品として買付け、輸出したと考えます。この事は、静岡茶が、釜茶、バスケ、アイノと輸出されていたところに新風を吹き込んだといえます。
時代は昭和となり、荒茶も内地向きと貿易向きと製法も二種類になり、昭和二年ソビエトとの間でグリ茶の取引が開始されますと、庵原の製造家が先ず第一に製造を開始し、荒茶製造業者(この生産家を市場では精揉機屋と呼びました)は直接荷主代人の所へ見本を持ち地方仲買人を介さず再製業者に商談をする者が次第に多くなりましたので、グリ茶の荒茶の取引も代人組合員の手により商談される途が開かれたのです。
グリ茶は対ソ取引が毎年ありましたので、精揉機屋でも、島田を始め小笠の一部と榛南でグリ茶の製造する工場が年々増加し、直接代人組合員を介し取引されました。
伸茶も特殊の茶をつくる自園の生産家及び設備の大きい製造業者も代人を通じ貿易筋との直接取引出来るのを満足し、代人組合員も受け入れを歓迎し、組合員は各産地の製造家に静岡への出荷をすすめ、欠点のある茶はココを直せなどと注言をし、品質改良にも尽くし、代人組合による商談に満足を与えた事は、今にして考えれば大きな取引の変化と茶業の発展に尽くしたといえます。グリ茶の取引数量は次表のとおりです。
この十年迄つづき茶園増反に拍車をかけたのです。
従って、荒茶製造業者も従来の仲茶とグリ茶の二種類となり、グリ茶は貿易筋でも香味、水色の点で伸茶程やかましくなく、形状に重点がおかれましたので、庵原郡を始めとして東部地区では特に設備が大型化し、又、榛南、島田方面でも製造が大型化し、したがって荒茶製造業者の一日の製造高も多くなってきました。
この点に着眼したのが、静岡の私の所属していました代理人組合です。
ソビエトへの輸出
ホキットニー商会を買収合併し、ホキットニー商会の所に移転し、荒茶再製所も建設し、名実共に日本茶輸出の王座につかれたマッケンジー氏夫妻の日本茶に対する功績は誠に大きな物があり、県下再製業者もその恩恵を受けた事は言を待たぬのであります。
マッケンジー氏に就いては、私は来静以来静岡で一生涯を終られてまで、取引をさせて戴きましたので、資産凍結の時を始め、種々の出来事がありました。
前年ゴットリーブ氏が吉川合名からアーウィン商会の名義で仕入れたグリ茶は大正七年には仕入れ量も減少し、他の釜茶と同じ様な形式で買入れされました。
そしてその翌年大正九年には、グリ茶の買付けはまずなかったといえます。
従って九年以降十三年迄は、グリ茶の輸出は中絶したのですが、大正十三年の秋頃から私の観測によりますと、アーウィン商会はソビエトの通商外交部が支那の上海にありましたので、日本茶のグリ茶の取引に関し、秘かに交渉をしていたと思います。
ただ取引の条件がソビエトは支払いが長期でしたので、その交渉が難行したと思います。当時支那茶の仕入だけでは、ソビエトは茶が不足していた事は事実です。
その交渉が大正十五年に両者間でまとまり約一千万封度の輸出が実現したのです。
この商談がアーウィン商会とまとまる前に我が国にも他の商品と一緒に交渉があったと思いますが、支払いが長期でした関係で取りあげられなかったと考えます。
しかしこの商談は、茶業界にはアメリカへの輸出のみでは心細い時の事ですから喜ばれ、又業界将来の為、大きな刺激となり荒茶製造機、即ち揉除機及びガラ機などに、松下、高林を始め機械メーカーが日本茶に合う機械を考案し、精揉機屋もこの取引に再製業者と一心同体となり、日本茶のグリとして一人歩き出来る製品が生産されました努力は、静岡県茶業の発展に拍車をかけたのであります。
そして、大正十四年にはアーウィン商会がソビエトと商談を成立させ釜茶とグリ茶の混合合を輸出しましたが、翌十五年にはグリ茶のみの製品を同じくソビエトと協約し、精揉機屋もグリ茶の製造が本格化しました。
その翌年即ち昭和二年には、ソビエトの通商部が東京に設置され茶は通商部で取引する事になりましたが、支払いが長期のクレジットである関係で地方銀行ではその処理がむつかしいものでした。三井物産、三菱商事とかねてから茶の輸出に関心を持っていました関西実業界の雄者である大阪の岩井商会が時の明治銀行静岡支店長生駒氏を介し、吉川合名会社とまずグリ茶谷品の確保をし、取引契約を結び静岡再製業者の有志が静岡茶直輸出組合を設立し、理事長に河村鐘三氏がなり、この二者を加えてソビエト通商部と取引契約を結び茶業者がグリ茶の直輸出が出来る事になり、昭和二年には二百万キロのグリ茶の取引が出来た事は茶業界に取っては画期的な取引であった事と、これによりグリ茶に対する生産家の意欲を深めたのです。
この対ソビエト取引は、昭和十年迄つづきました。
通商部がグリ茶以外に茶の実を多量に買付けました。これは、ソビエトが国営でコーカサス方面に茶園の開拓を始め、日本のみならず支那、インドなどからも茶の実を買いつけ、将来自国で茶の生産をする意志であったといえます。
又、モロッコ、リビアなど中近東の日本グリ茶に対する関心が高まり、昭和十年には日本茶業中央会も鳥居氏をトリポリに派遣し、アフリカの状況の視察を依頼したのです。
当時のアフリカはその多くがフランス、イタリー二国の支配下にあり、鳥居氏も苦労されモロッコ方面に日本茶のグリ茶、特にソーミー(SOWMEE)に意欲がある事が判明したのです。この鳥居氏の派遣には理由があったのです。
それは、昭和七年頃からソビエトへのグリ茶にはソーミー(形状のコマカイ茶)の混入を極度にきらいましたので、ソーミーの在荷及びその販路の拡大に大きな希望があったからです。
ソーミーに就いては、ヘリヤ商会が昭和八年頃からイタリーを通じ、モロッコに極秘で輸出していました。外商は日本人と異り、行き先、又は新しい製品を売出す事は一切秘密で、ヘリヤ商会のこの輸出に関しても知っているのは日本人の社員の内でも仕入主任と会計位で決して口外はしませんでした。当時の外商に勤めていた日本人は、ヘリヤに限らずその点は、事取引に関する限り口外しなかった事は今の若い人達も学ぶべきであると考えます。
話が横にそれましたがモロッコへの取引はヘリヤ商会が口火を切ったといえます。
この取引に就いて当時の貿易筋業者は、ヘリヤ商会がソーミーを買付けるのは釜茶の合組に使うのだと想像し、そのままで輸出されるとは誰も思いませんでした。
この事は当時のヘリヤ商会の仕入主任からつい最近話を聞き初めて知りました。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
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貿易茶物語 第7回 斡旋業と組合・新しい販路
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第7回
貿易茶物語 第7回
斡旋業と組合・新しい販路
大石 鵜一郎 著
斡旋業
各地区の精揉機屋を我々代理人組合員が訪問し、貿易筋との商談の斡旋をすれば直接取引が出来、しかも、貿易筋が希望する茶の指導するというと言葉は大げさであるが、悪い点を改善する事に役立ちます。各精揉機屋が市場で好まれる茶をつくる事が出来、従って手合せもスムーズに行われるからという事を強調したので昭和になりまして、従来地区の仲買人に売っていた精揉機屋から静岡への出荷が増進したのです。
一方仲買商は、静岡へ精揉機屋の出荷が増進することにより自分達の扱料が減少するので、遠州方面の一部仲買商から代人組合に、精揉機屋を訪問し取扱わなければ我々仲買商はその代人には我々の見本(即ち取扱い)を出さないから、などの意見を言う人もありました。買方は、精揉機屋の個々の茶の仕入れが出来るので歓迎しており代理人組合としても精揉機屋個々の茶を扱う事が、静岡県茶業の発展の為にもなるとの意見に一致し、その点においては一層の努力する事をきめ、代人組合員は各自店員をふやし、取引の円滑に万全を期したのです。
代人組合のこの取引の方法は、茶業連合会議所でも注目し静岡茶斡旋所を安西三丁目へ新設し中村直次郎氏(中村円一郎氏の実弟)を社長に、松浦治平氏を営業主任として安倍郡の茶を主体に取引の斡旋を始めたのです。この斡旋所が代人組合と異なりました点は、現物を集荷し、代金を斡旋所で支払った点で今日の静岡茶市場の取引方法と共通したところがあります。
又、精揉機屋の静岡市場への出荷が増加するに従って荷主の数も年々多くなり、鉄道当局から乗降客の増加を理由に駅にて見本を荷主から受取る事は自粛する様に、代人組合に申込みがありました。しかし、組合員中に産地、例えば袋井、掛川、島田、藤枝方面からも通勤者がおりますので列車中で見本を受け取る事が出来ましたので昭和五年頃から組合員は各自分の持つ地盤の荷主が乗る駅迄出張する様になり、毎朝七時三十分に静岡駅着の列車を茶業では、一番がつく時間と称し、買い方も茶の拝見場(仕入する場所の呼び名)を整理して荒茶見本の到着を待っておりました。
そこへ、代人組合員の店員が見本を提出し、買い方は品質、形状を検査して希望する荒茶に値入れし、値段の交渉に入り、売り方は同じ見本が代人の数店へ渡してありますので、支払い条件と毎日値入れしてくれる店と、時たまに値入れしてくれる店などにより値段に格差をつけ、勿論代人もこの店は大量買入れする店か、支払は現金か、手形か、時々払いかを知っていますので、値段の交渉は一切算盤で行い、所謂セリ売りの形式で売買が成立します事は業者が皆承知の通りです。
この荷主代人の仲介により、取引市場の形態が茶業独特の方法により行われる事が茶の取引を活発化させました。又、荒茶製造業者(精揉機屋と茶業者は略称します)が直接買い方と直結し、精揉機屋が同じ産地で、同じ茶葉で、同じ設備を持っていてもその製造の工程によって、製品の善悪があらわれ、どこかに欠点がある物は、従って商談に時間がかかり、値段に差がつき、自分の茶が早く商談のつかぬ事が一番本人の苦痛であり、代人としても手数がかかりますので、本人は他の売足しの速い茶の見本を貰い、代人もその茶の欠点を指摘して改善させる指導をくり返した事も、静岡県の茶が急速に発展した大きな要素となった原因といえます。
なお、取引の時の明記された数量に相違した場合、例えば三〇本と記してあったのが二〇本になった場合は取引が貿易筋主体であった関係もあり、非常にやかましく、特別の事情である以外は、荷口の拝見をせず値引も取引もキャンセルされ、その荷主の見本は買付けせず代人も度々重なるとその店への出入りを止められる事になりました。
この点の今の現状はどうかというと、後から高い値段を聞くと商談した茶の方の荷渡しの数量をへらし他の方へ売るという精揉機屋も悪いが、斡旋業者もまず第一にその荷主に荷物のあるかないかを聞き、ないと言ったら値段をきかず、あきらめる事が必要と考えます。
この事が斡旋業者が取引の中心母体である以上、断固心すべき事で、買い方もその点心すべきであると考えます。
昭和五年からの製茶売込荷主代理人組合のメンバーにも移動がありました。業界の名物男南城一六商店とマルヤ飯田商店、乾商店は廃業し、永野幸一郎氏が組合長となり次のメンバーとなりました。
フジヤマ一永野商店、大浜商店、金谷連合(代表半場)、マル二小野田商店、マル一大石商店、ヤマ正榛葉商店、サス二横山商店、マル三望月商店、マル中小長谷商店、カネ治鈴木商店、フジヤマ本市川商店、フジヤマサ佐藤商店、カネ源杉山友作商店、ハセ友商店、マル松青島商店、マル浪藤波商店、マルカ杉山商店、三岡商店。
小野田、横山、カネ治鈴木、マルカ杉山、佐藤(敬称略)は旧主人の了解と組合員全体の承諾を得て円満裡に独立したので、組合員の結束団結は一層強化されました。
県信販組合とスリ売屋と代人
丁度その頃県下に静岡県信用購販売組合という組織が農村の生産者を対象として生れ、町村単位に支部が置かれました。これは今の農協の前身といってよいでしょう。農村の個人への金融と日用品、肥料などの販売を主体として成立した組合組織でした。この組合が荒茶の委託販売を始めました。
この組合の方針として小笠郡の町村、特に笠原村、大坂村、中内田、加茂、川野などの各村の支所は生産家に粉を抜いて(除去して)出荷させました。
一方内地向き需要も生活水準の向上により需要が増加し、静岡市の内地問屋のヤマ上水上、ヤマ小小山を始めとし、カネ小金子、ヤマ木鈴和、ヤマ二成岡、ホシK河村、カネ久上田商店(敬称略)などの発展がすさまじく、扱い料の増大にともない所謂通称スリ売り屋つまり内地再製業者が誕生したのです。
元静岡茶商組合理事長の若杉平六氏を始めヤマ新本目、ヤマ一前源、カネカ米兼、ヤマ八前田、ヤマ十海覚商店などが内地再製の草分けといってよいでしょう。従って売込荷主代人の仕事は年ごとに増加し代人組合にも新しく杉山友作氏、望月伊作氏、カネト野中商店が新規加入し組織を強化し、団結をつよめ売買双方から信頼される代人組合にと努力したのです。
当時、製茶売込荷主代理人の店の事を業界では代人と略称したのは、内地再製業者の事をスリ売屋と称したのと同じです。
しからばその代人が扱う荒茶の見本をいかにして手に入れたかというと、静岡以西の荷主は当時の交通状態から静岡駅着七時二十分と九時頃着の列車で、東部は八時頃の列車と九時頃の列車で到着しますので、代人の店員が駅迄行き、荷主は自分の思う代人の二、三店へ見本を渡し店員は各自に自分の店に持ち帰り主人の命令にしたがい買い先へ持参、商談をしたのが始まりです。
そして、十時頃迄には特殊茶を除き荒茶取引は毎日大体終了しました。
代人の活躍によって一番打撃を受けたのが荒茶委託問屋で、集荷が減少しその店の持つ地盤は次々に代人組合にうばわれたからです。
ここで県下の静岡以外の茶業界を眺めますと静岡につぐ集散地は藤枝でした。それは志太郡産の茶が輸出茶の内野篭茶(バスケットファイヤード)B・Fに適した茶が出来たからです。従って、サスナ笹野、カネ三西野商店の一統、マル花花沢、カク二鈴木(鈴幸氏の実弟)、マル古松田など内地貿易兼業の商店が貿易茶の再製に力を入れました。他に内地問屋として榛原町の佐塚屋、カネ吉大石仙作氏、相良のサス宇伊藤、カネ八鈴木商店、池新田のマル中中山、島田のマルニ、岡部の駿岡社などが特に目立った存在でした。
この郡部の業者も中級品以下の茶の再製技術については静岡のスリ売屋(内地再製業者の略称)の製品より劣りますので、大正末期から下級品の内地向け製品を代人を介し、取引されました。そして現在に於いても静岡のスル売屋の製品は藤枝を始め県下の業者に斡旋業者を介し取引されている事をつけ加えます。
一方、買い方には昭和になって大きな変化がありました。特に貿易業者が関心を持ちましたのが、アーウィン、ハリソンエンドクロスフィールドとホキットニー商会の合併でしかも荒茶の仕入も始めた事と池田本間商会が解散して池田謙三氏が旧英一番の跡を買い取り新しくBA商会を開業し、荒茶を専門に仕入し自らの工場で再製し、輸出を開始した事は業界に大きな衝撃を与えました。この二社の荒茶仕入は県下精揉機屋に大きく響き、静岡市場への出荷する業者が増加しましたので代人組合店の取扱は一層増加しました一方、荒茶委託問屋への荷主の出荷は減少し、尾崎国産社他数店は廃業し、特殊の関係を持っていた水上委託部、マル八望月とサス中牧野商会、マルイ大石太郎兵衛店の四店となりまして、荷主代人組合は荒茶取引の重要な存在となりこの取引方法で日米国交断絶の十七年迄つづいたのです。
さて、この時代の荒茶大手仕入筋は外商では、ヘリヤ商会、アーウィンホキットニー商会、日本人商社で富士製茶、日本製茶、再製者としては、ヤマ吉吉川合名、伏見製茶、駿静製茶を筆頭にサス吉武田、マルは山本、カネ久上田再製が静岡製茶と変わり、静北製茶などが釜茶(P・F)の主なる業者でした。
そして、内地問屋は、ヤマ上水上、ヤマ小小山、カネ小金子商店を始め歴史の古い鈴和商店、貿易再製から内地問屋になり通信販売の元祖ともいえるヤマ二成岡蓮三商店、そして成岡商店から別れ独立したヤマ二石川四方蔵商店、荒茶の市中販売をやめて、内地問屋専門になった新進、サスボシ小林商店などの進出には目を見はるものがあり、ヘリヤ商会の出物を引受けたホシK河村商店の存在も忘れられぬものでした。
又、赤沢屋は貿易再製と内地問屋としてマルウ宇和商会などと共に問屋として活躍されました。
業界以外からの茶業進出者として薬業界でその名を知られておりました星製薬株式会社が清水俊二氏と協定を結び内地販売に特殊のルートを使い進出したのも昭和の初期でした。
そして、昭和十年頃、日本紅茶株式会社が三菱の子会社北洋商会と結び、日ガサ印煎茶を売出したのは昭和十年頃でこの方法が現在スーパーなどにて茶が売られる様になった要素と考えます。
一方、内地再製(スリ売屋)もグリ茶を再製し貿易筋への売込みを開始する業者がしだいに増加し、工場も大型化し、ヤマ新本目商店、ヤマ一前源商店、カネカ米兼商店、サス二若杉商店、カネモ朝比奈商店、ヤマ八前田商店などがあり、マル文佐藤、マルモ森商店なども進出しました。
郡部再製にも大きな変動があり、藤枝のサスナ笹野、カク二鈴木、江尻(清水市)の石貝氏、掛川の堀再製など横浜時代からの名舗が姿を消し、榛原町のカネ万三有原、相良町のサス宇伊藤、掛川の笹野再製、袋井の大矢再製、牧之原のヤマサ栗田、焼津のマル合服部商店などが進出し、藤枝はカネ三西野商店とヤマ一本店の一言弥太郎が、藤枝の市場を牛耳り、島田はマル三、山二製茶など振山が中心となりましたが、榛原郡吉田町のカネ万中村製茶部は郡部の王者として業界に君臨しておりました。
次に、荒茶の出荷状態も昭和になりまして鋏刈や精揉機などの改善と普及の為年々増加し、従って精揉機屋の数も増加すると同時に、一日の各工場の製造量も増加して来ましたので、その他の仲買人に商談せず直接静岡を始め、藤枝などの茶市場に出荷し、代人組合員を通して取引する方法が進み、昭和十年頃には荒茶仲買店は特殊地域の荒茶、たとえていうと荒茶工場の設備の小さい工場の多い所(堀の内、菊川近辺、掛川、川根、金谷、森町など)を除いて殆んど廃業し、社の茶と精揉機屋の荒茶が大半を占めました。
ここで昭和五年頃から茶が統制になります迄の精揉機屋の大手をあげる事も思い出の一つとなりますのであげてみますと、静岡を中心に西部では第一が島田のマルカでグリ茶を毎日一三〇本(四〇 入)を静岡へ出荷して来たのを筆頭に同じ島田のマル共、マル中、牧之原のカネ久鈴木、マルス鈴木、榛原のマル仁、マル吉、諸井(袋井市)のマル大大石、浜松のカネ上、マル浜、東部では庵原のカネ中中村、ヤマ田村田、カネ二大沢、カネ石石原、カネ久、富士でマル元竹川、マルス鈴木、駿東のマルト岩友、マルモ三須などは盛時には五○本から八〇本位製造した精揉機屋でした。
今このメンバーを書いて思い出す事があります。それは、製紙界、社会人野球でその名声を謳われる大昭和製紙の創立者社長故斉藤知一郎氏。昭和三年と思いますが、吉永村、今泉村(現吉原市)の当時一〇本から二〇本位の荒茶を製造する精揉機屋と相談して静岡の茶町通りに集合所をつくり、そこで各自の見本を各自好む所の代人組合店に渡し、商談した時のメンバーの一人に名前はカク米斉藤兄弟製茶工場と称し、毎日一二、三本の荒茶を静岡に持って来た精揉機屋さんでした。
このカク米斉藤兄弟製茶工場は、二、三年で精揉機屋を廃業し、製紙業に専念され、またたく間に富士郡下の製紙業者を合併して大昭和を建設されたのです。カク米斉藤兄弟製茶工場の売込みに来られたのは主として弟さんで私も、その茶を斡旋取引した事もあり、斉藤知一郎氏にも二、三回商談の話をした事がありました。当時で言うと小規模の精揉機屋さんでその方が大昭和の社長になるなど当時は考えられませんでした。
話は横道に入りましたが、思い出したので書きつづった次第です。
さて、この荒茶は、一番茶、二番茶の盛期には買入筋にヘリヤ商会、アーウィン、富士製茶を始め大手再製筋の毎日の仕入量は、一日一店三万キロから多い時は一店で一〇万キロの買附をするので午前中には、今と同じ様に取引は完了されたのです。
貿易筋の買入れ相場が、大きくいえば日本全体の茶の相場となったといっても過言ではありません。なお、今大手筋の名前をあげましたが、この人々の内、現在も生産をつづけている工場は、極少数で所謂戦後派と交している事を見ますと感無量のものがあります。次に、各産地に大型精揉機屋の出現により地元生産の生葉だけでは原料不足となり自動車運輸の発展と共に、生葉の交流が昭和の始めから次第に激しくなり、国道の富士川鉄橋が完成されたのを機会に東部の生葉生産量の半分は富士川を渡り、榛原郡あたり迄も交流される事となりました。しかし、当時は道路が今日と異なりますので遠路は生葉の中へ氷をいれて運搬するのが常例でした。この様に静岡の市場へ集まりました荒茶の大半は代人組合員の手により商談されましたので、代人組合の責任を持って、商談をすすめ、各代人の店もおのおの特定の得意先を持っておりましたので、盛期には一店一日の扱数量が一千本を越す日が度々がありました。
しかし、生葉の摘み取りが鋏と変わりましたが、茶園が鋏刈り園になっていませんでしたので、荒茶に茎が多く、従って再製茶にも茎の加入が増えてきました。
特に中級以下の品には、茎が目立ち、アメリカ及び輸出先から苦情が持ち込まれ、曰く「茎が多い」即ち荒い言葉では「材木が入っている日本茶」などといわれましたので、日本茶業中央会は外商始め輸出商と相談し、業者の了解も得て、茎の含有量の検査を輸出茶全部に実行したので、この事は非常に効果があり、茎の非難はなくなりました。しかも検査所が水分の含有量迄検査した事は検査所のヒットといえます。
また、再製業者は、今の棒取機がない時代でしたので、茎の含有が多い部分を内職に出し茎を取りのぞきました。一つ余計の仕事が増えた事は事実ですが、家庭では綺麗な内職と歓迎されたなどの反面もありました。
清水食品(代表者清水俊二氏)と星製薬との提携
新しい内地取引の方法を考えられ、そして新しい経営方法で取引を考案されたのが清水食品の清水俊二氏です。同氏は従来と異った包装で煎茶また棒茶を販売されると同時に、当時の薬種業界の話題の中心であった星製薬と共同提携し、「星のお茶」と題し星製薬の特約店での販売を開始し、業界を驚かせました。そして、三年程で星製薬は末広町のアーウィン商会が移転されたのでその跡地を買い、独立されましたが、工場を含め建築物全部を火災のため焼失しましたので姿を消しました。
これが茶業者が他の業界と結び、茶業の販路を新しくひらいた第一歩と考えます。
これと同時頃に関西では森永製菓が宇治上泊の業者と提携して、ほうじ茶を名称「宇治かおる」として売出し、東京方面では相当の需要を喚起しました事は、ほうじ茶の今日の売行きをみる元祖といえます。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
貿易茶物語 第8回 茶業騒動と紅茶の取引
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第8回
貿易茶物語 第8回
茶業騒動と紅茶の取引
大石 鵜一郎 著
茶業騒動
これが茶業者が他の業界と結び、茶業の販路を新しくひらいた第一歩と考えます。
これと同時頃に関西では森永製菓が宇治上泊の業者と提携して、ほうじ茶を名称「宇治かおる」として売出し、東京方面では相当の需要を喚起しました事は、ほうじ茶の今日の売行きをみる元祖といえます。
昭和十一年新茶になりました時、前年迄各地の信用購買販売組合の扱っておりました茶(所謂市場での呼び名社の茶)を新しく組織替えして、県購連の略称で新茶から各支部で集荷し、これを本部に集め、内地販売を企画し、それを実行しましたので、静岡を始め県下の内地茶商に大きな衝撃を与えたばかりでなく、今迄社の茶を多く仕入れていました外商ヘリヤ商会などに迄打撃を与えました。
この新茶を集荷して、内地の各都市の有力小売商に販売を企図した事は、その宣言に生産家の製造した茶を中間問屋の手を省き、直接需要者に送るという事で、つまり「中間業者の搾取をのぞくため」と迄言葉にあらわした事が、内地茶業者の立腹する所となり、静岡市の茶業者は将来の死活問題として、内地問屋組合がヤマ上水上、ヤマ小小山、カネ小金子商店を始め若手の小林誠一郎氏、成岡謹三氏など有力茶商メンバーが一斉に奮起し、藤枝、島田、掛川を始め県下茶商もこれに行動を共にして打倒県購連、守れ茶業の生命線を旗印にして、静岡市公会堂を借り茶業者五千人を動員して大会を開き、対県購連との闘争を開始し、問屋筋は全国の茶商の協力を依頼し、同意を得、売込商組合は(その前年に代人組合はその名称を静岡茶売込商組合と改名しておりました)、各荒茶生産地に行き、大小を問わず、各自が自分の名義で静岡を始め各地に出荷する事により、品質の向上も出来ると宣伝に全力を傾注しましたので、一番茶の精揉機屋の出荷は増加したのです。
争議は、日に日に激烈となり、静岡に於ては茶業青年団長小山金作氏、副団長河村鐘三氏を始め全員が陣頭に立ちあらゆる戦術を考え、当時静岡駅前にありました、お茶の静岡の大鉄塔に「打倒県購連」「守れ茶業の生命線」の大タレマクをつくり、全市民の関心を呼び起こさせ、市内にビラをはり、戦意をもりたてました。
一方県購連の専務岩間芳雄氏は信念の強い所謂頑固な人物で、私の静中時代の三年先輩でしかも野球部のキャプテンでスパルタ式練習で随分泣かされた人物でした。さて本筋にもどり、この青年団の幹部に藤枝の一言弥太郎氏、掛川のカネモ角替氏の加わった業者の代表と、岩間専務と猛者の石川氏等との対立で争議は解決の糸口もつかめず、一方、一番茶の生産は増加してきましたので、全国茶商もその成行きを心配し始めました。
しかし、県の当局者もその成行きを傍観するばかりで、仲裁に入らず、清水食糧の清水俊二氏が仲裁に入りましたが、県購連が主張を曲げず物別れとなりました。ただ、県購連は再製工場を持たず、売先きのなきまま集荷はつづけました為、各地の県購連の支所のみでは置き場所に困り、BA商会の池田謙三氏が静岡県人でなく、かつ、変わった思想の持ち主であり、工場も英一番の跡でしたので、規模が大きいのに目をつけ今の言葉でいうとこれに目をつけ買収し、集荷した荒茶を毎日十万キロ位づつ委託したのです。
この県購連と池田氏の行動に対し業者は一層争議を強め、業者はBA池田氏と一切取引をせずその行動を見張ると共に、BA商会に出入してその荒茶取引に関係した二、三名(特に姓名を秘す)を売込商組合は除名を公表して一切の交際を絶ちました。
ヘリヤ商会始め他の外商及び輸出再製も県購連の茶は一切取引せず、県購連とBA商会は孤立し茶業者の団結の強さを示し、貿易筋を始め一般の取引には支障は案外少なかったのですが、茶商側は県購連が将来内地貿易両面への進出が懸念されましたので断固闘争をつづけました。
しかし、茶市場の空気にはおもくるしいものがありましたのと、茶期でしたので昼間は業者は仕入、売込み、夜は戦いの相談が毎日つづき、一方県購連は、BA商会だけでは荷物の貯蔵には限度があり、しかも今日の様に冷蔵庫の設備がない為、荒茶の火入れにおわれ、自己の輸出茶の製造にも事欠く状態と迄争議は発展したのです。争議が永びく様相は必ずしも茶業にプラスとなる事にならずと考えられたのは、県下輸出再製界の大立物吉川覚次郎氏でありました。氏が双方の主張を聞きただし、仲裁に乗り出したのは争議が始まって約半ヵ月後でした。まず、同氏は、第一に県購連が業者を甘く考えている点を指摘し、集荷した荒茶は売込商組合員を介し、業者に売込み、自己製品は組合支所に流し、支所以外には売込みをせぬ事、輸出も輸出業者を介し行い、荒茶の売買は売込商を通し行うという条件を承知するなら仲裁の労を取ると話し、県購連はこの条件に納得しませんでしたが茶業者が永年の努力の結集により今回の市場が形成された事と、茶業の歴史と大義を話し、この条件を承知させて茶業者側に伝えました。
業界の代表であった小山団長、ヤマ上の杉山氏など幹部は、県購連の将来に関し、禍根を残す事を考慮しながらも業者への進出をはばみました事により、吉川御大の偉大なる力量を信じ各関係筋の了承を得て、解決を吉川御大に一任し、両者を呼び、吉川氏に清水俊二氏がつきそい立合の上、手打ちして解決したのです。
私はこの争議がなぜ起きたかを考えますと、まず第一にあげたい事は県購連が茶業界の取引の現況を認識していなかった事が事態を悪化させたと考えます。しからばなぜ認識不足かというと、貿易筋は明治四十年の清水開港と同時に外商を静岡に移転させ、輸出向け再製茶の加工技術を研究し外商が工場を設置しなくても、その注文茶を製造する迄の努力をした事と、内地筋は国民全体がお茶は宇治茶と言われたのを所謂内地の需要者が満足する茶の生産に内地問屋と精揉機屋が、売込を介し取引しておりました関係から、色沢、香味に各産地の茶の持つ特色を生かし製造させた事が静岡茶が国内全般に知られる様になりました。内地問屋を始め売込商などの業績を考えずしかも一言の挨拶もなく、県購連を支えるバックの力を過大して、安易に売買が出来ると過信した事がこの争議を大きくした原因であるといい得るのです。
吉川御大の伸裁により、円満解決により茶業者の団結力は一層強くなり、茶業一筋の発展に努力する事になり、一方、県購連により茶業が一歩ふみ出した事はいがめない事実です。ただこの争議にBA商会は一人独自の立場をとり、業
者から取引以外は茶業者全般からはなれました。売込商を除名された人達も、組合の意志に反した行動をした事を深く陳謝して復帰し、今後の協力を約束し、全部の争議を終わりました。吉川御大は、解決するとその日に私を呼び、事件は解決したが、果して業者が県購連と進んで取引するものはないと思うから、その先鞭をつくる事が和議ができた以上必要と考えるから、私に県購連へ今から出向き、在荷を買付けてこいといわれ約一万貫の在荷を買付けて来た事は今も思い出の一つです。
紅茶
紅茶を日本人が口にする様になったのは、明治の初年といえます。
明治維新で我が国は世界の各国と貿易を始めましたので、西洋文化特にイギリス、アメリカ、フランスとの交流は激しくなり、官庁の机もテーブルと変わり、服装も洋服を着する人々の増加が年々多くなった時代です。ですから、見る物、身につける物、食べる物迄が新しくうっり変わるのは当然です。
そこで、世界の海の運輸を4耳っておつたのがイギリスです。そこで、食料品でまず輸入されたのが洋食(当時は西洋料理と呼び、この言葉は今日の言葉でよくつかわれる社交族又は新しい形のものを身につけた人をハイカラさんと呼んだのと同じでこの二つの言葉は大正の中ば迄使われました)が、外商などから招待されると御馳走になったのが始まりで、料理がイギリス風でしたから
食事の後で必ず紅茶が出るのが通例でした。これが日本人が紅茶を口にした始まりです。新しい物を好む、我が
国民の内の上流層、又、ハイカラ連中によって飲まれ、好まれる事に注目したのが、イギリスのリプトン紅茶です。このリプトンが、宣伝につとめ日本に今迄なかった飲料品として、一般に販売される様になったのです。
紅茶を買う人は、リプトンを今でも最高品であると思っている人もある程、イギリス人特有の宣伝上手の商売のやり方と感心します。
従って、日本人の紅茶はコーヒーより早い時代に口にした事がわかります。
明治十五年頃、外商が緑茶が出来る日本で紅茶が出来ない事はないといい、その生産をすすめられたので、当時の茶業界の第一人者大谷嘉兵衛氏を始め、業界の先覚者が試験的に一番茶で造りました。天候と温度、萎凋により、紅茶は始めて価値ある品が
出来る事を念頭に置かなかった事と、当初は台湾が支那の領土でしたのでその研究にも行けず、その製造は失敗に終わりました。
一方、我が国の国内状勢は、大正から昭和の始め迄、軍備拡張と輸入超過が進み、経済は年々赤字累積の財政となりました。その建て直しの為に、輸入増加を防止し、諸物資の国産奨励が進みました。紅茶もリプトンの輸入品のみでしたので、紅茶の国内生産が考えられ大正十年頃から紅茶研究所も設立され研究が始まりました。
又、昭和の初期浜口内閣の時は、不景気の時代でしたので国内産業の発達の為に、国産品を奨励し、その一例として江木翼鉄道大臣は、国鉄が使用していた時計を一切国内産精工舎の製品と変えさせて話題となりました。
この様な事が、国民が国産品を愛用し、さらに改善発展に拍車をかけたと考えられます。
紅茶も年々需要が、増加してきましたので、国産が業者の間で関心を持ち、特に大手商社三井物産、三菱は国産奨励を機会に三井は鹿児島の知覧と台湾の魚池に、三菱はその傍系の中村円一郎氏と三橋四郎次氏とはかり台湾の魚池にセイロンよリアツサム種を取りよせ、茶園の開墾を始め、昭和八年に日本紅茶株式会社も丸子に工場を建設、内地の販売を三井物産と共に開始したのです。
そして、当時は台湾が我が国の領土でしたので、台湾紅茶を内地に移入し、静岡県産の紅茶とブレンドしての輸出も考えられ、三井、三菱がその販路の拡張、特に世界紅茶市場のイギリスロンドンのオークションにも上場されたのを始め、各国に昭和十年頃から輸出しその量も上昇に向いました。
一方、県内の精揉機屋も日紅と三井が紅茶に適する茶樹の多い静岡の丸子、榛原郡の萩間、志太郡の一部の精揉機屋に製造を勧誘し、製品の買上げを保証して奨励し、又、静岡県以外では日紅、三井が地区と協定し、全国的に生産を奨励した効果があがり、紅茶に対する精揉機屋の関心が高まったのも昭和十年頃からでした。
そして昭和十一年からヘリヤ、アーウィンの二外商も紅茶の荒茶の買入れを開始した事は生産者に製造の拍車をかけたといえます。
ここで今日、話をしたらなんだ頭が古いなと一笑に付する事ですが、紅茶の需要を内地で増加させると、緑茶の内地需要が減少するという考えを持ったのが、当時の内地問屋の有力者、ヤマ小小山、ヤマ上水上、カネ小金子とこれに和波渉氏を加えて、代入組合に紅茶の取扱いはしない様にと申込みがありました。代入組合は臨時総会を開き、組合員個々の意見をまず第一に聞く事にしましたので、組合員の内、三岡氏はすでに日紅と取引をしており、私もアーウィン、日紅と吉川合名と取引してい
ましたので、この申出を受入れる事は絶対できない。もしこの事により内地問屋と代人組合との関係が悪くなる事態になるなら不本意ながら代入組合を脱退させてもらっても仕方がありませんとの意見を両名で申し出ましたので、総会はこの意見を書きつらねて、内地有力者に回答しました。その結果やむを得ずとの答えが出てこの問題はなしとなりました。
この問題の起源を考えますと三井、三菱などの茶業界以外の筋が、将来茶の内地販売に進出してくる事を防ぐ一つの手段として当時の業界のかくれたる智者として自任していた和波渉氏の発案であったと思います。
話は横道に入りましたが、紅茶の荒茶が出廻って来ましたが、前記四社以外の再製業者は、その再製方法を知りませんでした。
静岡茶業界の大御所ヤマ吉吉川覚次郎氏は、紅茶の将来性を拠出しその再製法に就いて、自ら荒茶見本を持参し、日本紅茶(KK)(当時の日本紅茶は中村円一郎氏が社長、三橋四郎次氏が専務で柚原氏が支配人・昭和十年)の柚原支配人にその選別再製方法の教えを受けた事は、吉川御大ならねば出来ぬ事で、自分の地位を考慮に入れずあえて、教えられたところに大きな存在があります。又、日紅柚原支配人は紅茶の再製品の仕入れを必要としたので、当時の内地再製が二番茶からは閑散期となるのを考え、内地再製筋の大手ャマ新本日、ヤマ一前源、カネカ米兼に紅茶の製法を教示、製品の受け入れを引受けました。
内地再製業者が二番茶から紅茶とグリ茶の再製をすることになった一つの原因です。
詳しく言うと紅茶の製品はOP ・BOP ・BPの三種類に別けて再製し、この三種類の分類料により値段が出るので、つまり上紅茶の荒茶で造った製品程BOPの分類料が多く従って値段も高く評価されるのです。
この再製法を静岡の再製業者が会得した事により、静岡市が日本の紅茶の市場として、世界の紅茶界に知られた原因です。
一方内地の紅茶の需要は昭和八年頃から大きく伸び、特に関西のコーヒー業者が皆内地産紅茶の取扱いを開始しました。特に大阪のコーヒー業界の一位でしたオリエンタルコーヒー(KK)の社長出石宗三助氏を始め、神戸の上島(現在の上島コーヒー社長)、大阪の協栄製茶(現存)社長など関西の食料品業界が紅茶の販売に努力され、出石氏などは毎月来静され、十万封度位を買付けられました。
又、ハキム商会及び栗田商会なども新しく紅茶の輸出に新販路をつくり買付けを始められた事も、紅茶の生産に拍車をかけたといえます。一方生産面においても、BOPの多く取れる荒茶は高値で取引される関係上、二番茶の早摘みを買手筋も歓迎しましたので、精揉機屋も緑茶以上に品質により値段の差異があるので、荒茶製造に関して技術の向上に努めた事は、本県茶業に大きな収穫でした。
しかしながら残念な事が一つありました。それは、本県産が鹿児島産と比較して劣っていた事です。これは気温の関係がありますが、鹿児島県が紅茶を特に奨励し、県は補助を出して生産を特別奨励し、県は北村技師を指導にあたらせ品種に印雑を主体としたのと、茶葉が静岡県産に比較し厚く、従ってボリュームがあり、味も濃厚であった事が原因です。
しかも、三井との関係があり紅茶に限り一元集荷し、茶業会議所が県産連を介して行った事が大きな原因と思います。昭和十二年産の紅茶を三井が買付けを都合があったと思いますが中止しましたので、三井農園以外の在荷は八万キロ位あり、県が指導した関係その在荷を日紅に話した事から私はその全部の買付けに行き、現品を見ました時に鹿児島県の紅茶の荒茶製造業者は全部六番上の頭と粉を仕分けてあり、その荒茶は静岡県荒茶より品質が数段上物であった事には感心しました。
しかし鹿児島県の紅茶は昭和十五年頃からその主産地であった知覧が全部飛行場となった関係で姿を消した事は、紅茶業界にとっては残念な事でした。
県下でも大生産地牧之原が大井飛行場となりましたのと、食料不足から茶園が食料品の生産に変わりましたので、茶の生産は減少し特に紅茶は、生産の余地がなくなり、台湾からの移入のみとなり、昭和十九年六月東亜茶業が台湾から移入したのを最後に昭和二十年八月十五日の終戦を迎えたのです。
紅茶について最後に一言いいたい事は、昭和七年頃から急激に国内で紅茶の需要が増加した原因を考えますと、コーヒーのブラジルからの輸入が極度に制限された関係から最初は満州大豆を焙煎して、ミックスし、以前大衆はこれをコーヒーの味として満足していましたが、その満州大豆も食料品として配給制度になり、大豆が芋にかわり所謂芋コーヒーとなって、味覚が極度に悪くなりましたのに比較して、紅茶は統制からはずされ品質は改善された事が大きな原因と考えられる事をあえて付言します。
そして終戦後はアメリカ軍の進駐によリストレートのコーヒーが持ち込まれた事が戦後国内での紅茶の売行きがのびなやむ事になったといわれています。
ハキム商会の出現
昭和十年夏にユダヤ系エジプト人クレメントエムハキム氏が突然静岡駅に到着し、未知の地の為タクシーに乗ってホテルと言ったところ、駅前の大東館まで走って五十銭取られたとよくハキム氏がその後言われた程、静岡を知らず翌日当時駅頭のお茶の静岡の広告塔から静岡茶業青年団長であった小山金作氏を訪問したので小山氏は近くのマルイ大石太郎兵衛を通訳に来てもらい用件を聞き
ましたら、輸出茶特にグリ茶の仕入れをしたいとのことで駿静製茶(KK)を紹介し、同道しましたところ、話の具合から駿静製茶の専務青野直次郎氏は自社では十分期待される取引はむつかしく考えられ、再製業者の第一人者吉川合名の社長のところに同行し、会談の結果ハキム氏は静岡茶の北アフリカヘの輸出を始める事を決心され、まず第一に立会われた大石太郎兵衛氏と野桜氏とにホテル住いは金がかかるので両氏の世話で、安東に借家し、女中一人を雇って約一年間日本語と茶業事情の勉強をし、吉川氏を始め茶業者と交際を始めました。
ハキム氏は一九一一年生れで父がアフリカの資産家で、当時二十四、五歳の青‐ 年で元気澱測日本茶の研究には特に力を入れられました。
そして昭和十年北番町に開業され、社長に鈴木宏氏を通訳に、浅原襲一氏(現平和倉庫株式会社社長)を茶の買付けの助手として、グリ茶の仕入れを始められました。この時代は日本茶業中央会が鳥居氏をアフリカに派遣し、ぐり茶の販路拡張に力を入れておりました時期と合致し、しかも日本のグリ茶は支那茶の釜入リグリ茶と比較し、格安でしたのとハキム氏が日本語を勉強したので解し、
交際上手でしたので外商の内の人気者となり取引もガンパウーダー、チュンミーを主体に大きな数量を仕入れ、北アフリカ(オラン、チュニス、ベンガジ、トリポリ、モロッコ)などに輸出され、対ソビエト取引がなくなりましたが、グリ茶の輸出に大きな光明を与えてくれました。
しかしュダヤ人特有の先見の明を持つ頭の働きの良いハキム氏は、日華事件の拡大と独ソ開戦が始まるのを予知して昭和十五年日本茶輸出組合が組織されましたので、全購連へ自分の実績を無償で譲渡し、その変りに全購連はハキム氏以外には日本茶の輸出を一切しないという誓約書をとり、今度は未知のアメリカヘ十六年五月に日本をあとに行かれたのです。
結局全購連はハキム氏の渡米の手助けをする結果になり、何も全購連は得るものはなく、うまくしてやられたといえます。しかも、当時海外への持ち出し金は二千円が限度でしたが、ハキム氏は籠上の不動産(現丸暮社長古橋氏所有)を八万円で売り、全購連との契約に基づき横浜正金銀行から八万五千円の国外搬出を許可されるという頭のよさを発起してアメリカヘ渡り、日米戦争が始まりますと軍籍につき、終戦と同時に進駐軍の一将校として来日し、茶業者と接触、進駐軍との間に立ち、好意的に日本茶に対し尽力され、しばらくして茶商人として又、来日しました。
私の紅茶仕止げ取扱の始まリ
昭和十年八月下旬、清水食糧社長清水俊二氏より電話にて、「マッケンジー氏に買ってもらいたい品があるから一寸来てくれ、今車を迎えにやったから」と言いますので参りましたら、清水社長が「君に紹介する人がある」とまず発言され、自分の永年の友人である台湾で茶製造兼問屋(紅茶、ウーロン茶専門)の中野十郎氏を紹介されました。実はこの人が三井物産へ紅茶を売約する計画
で現品を三万封度清水港へ送荷し、すでに現品は到着しているが三井物産の茶業部との交渉が不調に終りその処分に困却して自分のところへその販路を求めに来た次第で、自分が日本紅茶(KK)へは三井との関係上販売する事が出来ない。そういって他に三万封度の紅茶を買い取る店はアーウィンのマッケンジー氏以外にはないと思うが、さて、マッケンジー氏に直接会ってその交渉をするのは今の貿易業界に出入する人の中で君以外にないから是非その交渉を一任するからと、そして値段は中野氏が今さら台湾へ積みもどす事は面子にもかかるのでアーウインは台北に出張所もあるから台湾の相場より安く売らせるから是非たのむと言われたのです。清水商店は私の得意先でもありますし、マッケンジー氏のアーウィンにおける地位が静岡の支店長であるのと同時にアーウィン商会の東洋の店(上海、台湾など)の総支配人である事を私は知っておりましたので、私としては台湾茶を始めて扱う好機と考えマッケンジー氏に会い、紅茶を買う意志をたしかめて、商談の出来るか否かを話す事とし、特に見切る最低値段と見本(SHIPNG oSANPL)を預り、商談一切の交渉の一任を受けて、アーウィンのマッケンジー氏のところへいきました。
私はマッケンジー氏の気質をのみ込んでおりますので、この商談は赤裸々に一切を言って、まず見本を見てもらう事が出来れば商談はできると考えました。しかし、言葉の使い方がむつかしいので、アーウィン商会の日本人の支配人であり、また通訳である長島氏を呼んでもらって話をする事にして、マ氏の机の所までいきましたら、「今の時間に何んの用件か」とまず聞かれましたので、私が考えた通り「変った茶をあなたに見てもらい、私の英語ではわかりにくい点があるから長島さんを呼んで下さい」と。お願いし、マ氏が快諾し長島さんが来たので、私の考えていた通りに通訳を願いましたら、マ氏が君がそう言うなら見本を見ようといわれたので見本と荷物はすでに清水に陸揚げされている事を直接マ氏に話しますと、値段はいくらかと言われるので、この値段について
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は無理にあなたにお願いするので、強くオーナー中野氏に交渉し、普通の考えではだめであるから、商談が出来るとすれば封度貴店渡し三十一円までというのを私はマッケンジー氏に、「三十円五十銭ベスト、アイキャンドウ」と言いましたら、一寸考えられ「アイル、アクセプト、フウワ、プライン」と言われた時私は男になれたと思い、その時のうれしさは今もって忘れられません。 清水氏は中野氏と共に非常に感謝され、荷渡しも翌日すまし、小切手をすぐ戴きました。 この紅茶取引が私の最初のもので、まさか台湾紅茶から始まるとは思っておりませんでした。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
貿易茶物語 第9回 吉川覚次郎の先見・東亜製茶・戦争
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第9回
貿易茶物語 第9回
吉川覚次郎の先見・東亜製茶・戦争
大石 鵜一郎 著
吉川覚次郎氏の先見の明
台湾の中野商店の紅茶をマッケンジー氏と取引した翌日、私の旧主人であり、毎日荒茶を斡旋取引しておりました吉川本店へ行き、大将と私と丁度二人だけ店におりましたので、この取引の話をしましたところ、大将曰く、「お前だからマ氏は信用してこの取引が出来たのだ。自分も台湾紅茶については興味を持っているから是非中野をつれて来て自分に紹介しろ。今日十一時過ぎから北番町の工場にいるから極秘でやってくれ。必ずつれてきて」と強く言われましたので、旅館大東館で中野氏と会い、来年は静岡の紅茶も生産が増加するからしたがってそれに配合する台湾茶が必要となると思う、と話し合いました。
(駐)
文中の中野十郎氏は、当時東京の有力大問屋吉浜商店に勤務されており、何年か前に辞任され渡合し、台北市に茶商店を創立し、苦難をも努力で征服して内地人(当時台湾では日本人を内地人と言い、台湾人を本島人と称し、双方の交際はみな円満で他の業者には合弁の商社も多くあり、終戦まで人種的区別はありませんでした)として、唯一の再製工場を持ち、魚池にはアッサム種の茶園まで開拓し、満州方面に釜いり茶と紅茶を取引され、終戦まで台湾で一流商社となった台湾茶業界の顔役の一人でした。 終戦で工場も茶園もすべて没収され、引揚者として帰国し、郷里山口におられましたが、三十四年他界されました。 この中野氏などが敗戦の犠牲者の見本といえます。
東亜製茶
日華事変も戦線が仕第に拡大されヨーロッパ、東アジアの風雲やかましく、茶業者はアメリカとの国交が平和裡につづけられる事を祈らぬ者はありませんでした。 昭和十五年にアメリカ、カナダ及び第三国ドイツ・イタリーへの輸出が四千六百万ポンドでありましたが、昭和十六年に農林省が茶の価格統制令を布告しました。実際は前年から内地販売は小売価格の協定をきめていました。
しかし、この統制令に貿易は除外されていましたが、為替の管理、船舶の不足などから貿易は困難となりました時に、政府が七月に外国資産凍結令を発令しましたので、十月には茶の輸出は途絶のやむなきにいたりました。
一方満州は独立国家を形成し、北支及び蒙古は戦火の影響を受け、生活必需品の茶は不足していましたので、この方面への取引は急激に増加し、日本紅茶(KK)、駿静製茶、サス吉武田商店、清水市袖師のカネカ大石才次郎商店、三井物産などがその方面に活躍し、又、蒙古向けダン茶は清水俊二氏が東亜製茶を創設し、当時占領下にありました中華民国の漢口(現武漢)の工場で製造を始めました。
ところが、需要に応じきれず静岡にダン茶工場を建設し、九州宮崎に建設された鐘紡の工場とでダン茶の製造を開始しました。
昭和十七年に満州国は、生活必需品購買社を成立し、茶もその中に含まれましたので、吉川合名会社、鈴和商店(代表として時田松蔵氏)、駿静製茶の青野直次郎氏、サス吉武田安太郎氏、日本紅茶の柚原慶二氏、清水俊二氏、水上源太郎氏それに県購連を代表して石川氏と河村鐘三氏などが発起人となり東亜製茶株式会社が設立され(北番町)、社長吉川覚次郎氏、専務に時田松蔵氏、常務に水上源太郎氏、そしてヘリヤ商会に永年勤務され支配人、仕入主任であった鈴木昌雄氏が支配人兼買付け主任となり、満州国及び北支への輸出を開始したのです。
この取引を茶業者は円ブロックへの取引と称したのです。
この満州国及び北支への取引は静岡県ばかりでなく、京都府では辻利一氏が京都ブロック、三重、奈良、滋賀は中島氏が関西ブロックをつくり、玉露及び上煎茶を、静岡県は上煎茶と番茶ほうじ茶を日本茶直輸出組合と三菱商事、三井物産を経由して取引したのであります。
その包製は、最初は大箱入でしたが第二回からは全部小袋入でしたので、その点今迄の輸出と異なりました。
天津、営口など北支方面への取引は紅茶とグリ茶が大半で、蒙古へはダン茶が取引され、今迄の輸出再製筋が加工にあたり昭和十七年からは、国内消費以外は東亜製茶が唯一の茶の国外への取引場であったといえます。
そして東亜製茶も昭和二十年六月十五日の静岡の大空襲により灰燼と化したので、事務所を安東二丁目に移し、残務整理をして終戦を迎えたのです。私の店は、東亜製茶の指定売込商であり、終戦迄茶の取引についていられた事は一生の思い出です。
戦争
昭和十六年の価格統制令が始まり、戦争は拡大し、外商に資産凍結令が公布され、十七年には外商は、軟禁される状態となり、外商は皆、店舗工場を国に接収され、再製業者、輸出業者の工場も軍需工場になり、茶の再製は内地の一部に限られ静岡の茶市場は戦況の悪化に伴い姿を消し始め、そしてその従業員も応召又は徴用により転換を余儀なくされ、一方茶生産地の茶園は、牧之原の大半が飛行場と変ったのを始め茶は生活必需品から除外されました。このため米など食品原料の生産に切り換えられ、生産は減少、しかも輸送関係も極度に悪化し、県下の大精揉機の工場も軍需工場の建設の為買上げ又は軍需品製造工場となり、茶は統制品の内に入れられましたので、取引は限定されました。
かくして、お茶の静岡県の姿は日に日に米軍のB25による各地への空襲と共に消えていったのです。
一例を述べると、紅茶は贅沢品の中に入りましたので、静岡の丸子にありました広大な日本紅茶(KK)の工場全部は解体されたのを始め北番町の倉庫は全部軍需品の貯蔵所となり、北番町の一部が通行禁止になった事でも当時の戦争一色になった事がわかります。
この様に世界大戦となり食料品の輸入が皆無となりましたので、国内の食料品始め物資の欠乏は、すべての物資が配給制度となり、タバコなども十本一円程度となった事でもいかに国民が苦難にこらえたかが判明します。
しかし、国の政策として植民地即ち台湾、朝鮮、満州などは治安その他の関係からこの制度を除外しましたので、北支、満州などの茶の需要は増加し、煎茶には外商の凍結茶を政府から払下げを受けて合組し、紅茶は台湾から移入しました。特にダン茶は、軍が服をつくるのに必要な羊毛を蒙古から輸入するのにダン茶との物交でなければ手に入りませんでしたので、国内の茶の不足から台湾から頭茶、紅緑の棒茶を移入しました。
ここで当時の植民地の事情を参考に記しますと、台湾には私が、日本紅茶、吉川合名などの依頼を受け、前から度々渡台していましたが、昭和十五年には紅茶の買付けに三回行きました。米は在庫が多く他の物質も豊富で、国内とは全く異った環境でした。茶は、包種茶と紅茶が主体で、北支と満州の一部営口と香港への取引が大半でした。一例をいうとサントリーウヰスキーなどもマル公で一人何本でも買えるなどは内地では考えられぬ風景でした。
十六年にはダン茶の原料約十万貫(三百五十万キロ)を厚生省の買付け証明を持って行きました事などは今も思い出の一つです。
そして昭和十六年十二月、野村大使を国がアメリカに派遣し、最後の交渉に入りましたのと同時に、日本紅茶はその結果を考慮して、私に渡台をたのみ、戦争の有無により台湾茶の処理を一任されましたので、私は台北へ行きましたところ、すでに台北は勿論、高雄、基隆は多くの日本兵と艦船で出陣の用意をしていましたので、日紅の方針に従い処理をしました。 宣戦布告日米国交断絶の前日、上海廻りの軍用機で上海に飛び、軍用機の都合で半日滞在し、上海最後の日を見て夕刻上海を立ち、博多に帰りました時は新聞記者に上海の情況を聞かれたのも思い出の一つです。
昭和十八年六月、東亜茶業から紅茶買付けの依頼を受け渡合し、目的の数量を買付けましたが輸送が困難で漁船をチャーターし、神戸に運送させた時などは日台間には米潜航艇の横行が甚しく、上海は危険状態で敗戦近しとの感を私は抱いておりました。 この台湾茶の買付けが最後になるとは思いませんでした。というのも、この十八年十二月に再び渡台する予定でしたが、妻の病気そして十九年三月には死去のため中止しました。戦果期待に反し、各地への空襲により静岡市内でも疎開する家が多く、茶町通りの茶業者も私のほかに二、三人だけとなり茶の取引もなくなり二十年の静岡空襲によりすべてはなくなり不安の日々を過しました。その当時の事は今の若い人には考えられぬと思います。
そして天皇陛下の無条件降伏の詔書により、一切は終りをつげたのです。この時私の頭に浮かんだ事は今後の日本はいかになるか、茶業は果してどうなるかと考えまた人生を考え、筆舌にあらわせぬ感無量のものがありました。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
- 2026.10.22
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貿易茶物語 第10回 終戦・統制解除・茶の町の復興
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第10回
貿易茶物語 第10回
終戦・統制解除・茶の町の復興
大石 鵜一郎 著
終戦
昭和二十年八月十五日天皇陛下の終戦の御言葉を聞き感無量、我が国は敗戦国として米軍の占領下に入る事になり被爆を受けた焼けあとに立って私は考えました。すべてが一から出直しだ。それをやる事が我々の義務であり、また、自分の生きてゆく道である。勿論茶業者もそれがすべてであると考え、まず焼け跡の整理からと始めておりました。米兵が除々に進駐してきた終戦から十日位たった時、私が焼け跡に立っていると駅の方から一人の平服の外人が徒歩できて、私を見ると「ハロー・ミスターオオイシサン」 と声をかけられたので見ると、ヘリヤ商会のジンマリン氏ではないか。来日するにはあまりにも早すぎるからその訳を聞きましたら、終戦が近ずいたのはアメリカでは判明しておりましたので、自分は国籍がスイスなのでヘリヤ商会の命により、香港で待機し、イギリス大使館の通訳を兼任して終戦と同時に日本に来て、今日は静岡へ状況視察に来たとの話でした。そして、ヘリヤ商会の店員であった誰かいないかと問いますので、ヘリヤの人は判明しないが、アーウィンハリソンのマネジャーであった長嶋氏が近所におられるからと言いますと、是非面会したい案内してくれとの事で同道面会し、旧知の中でしたので三人でヘリヤ商会の焼け跡を見、そして長嶋氏の家へかえり、商売上の話がある事を私は察しましたので、失礼しましたら、帰りにマリン氏が私の所により、イギリス大使館での再会を約束して帰られました。 戦火を免れた事を話すと非常に安心されました。
私は同氏の来静によりヘリヤ商会は日本茶に対し期待をかけている事と、再来日して日本茶の輸入を考えられている事を予感し、ヘリヤ商会は必ず静岡へ来て茶の買入れをすると思いました。そして私がヘリヤ氏の住宅はジンマリン氏が来静された数日後にアメリカ軍隊の静岡駐留部隊が進駐し、城内の旧連隊跡に本部を置きました。意外だったのは、その部隊の中に茶業者として終戦前静岡に店舗を持っておりましたハキム氏が将校(大尉の資格)で来静されました。しかもビジネスマンとして社交的であった同氏の軍服を着ての態度は一変し、傲慢で茶業の旧知の間をまわり多くの話題を残しました。しばらくしてその姿を消し、その翌年軍服をぬぎ、ビジネスマンとして来静し、旧店員であった浅原氏(現平和倉庫の社長)をつれて、静岡はまだ復興の手がついておりませんでしたので、榛原郡吉田のカネ万中村製茶部を訪ねましたが、中村円一郎氏は死去されており、その三男であった円三郎氏と話し合い、ハキム氏は対米輸出釜茶の店を開くからと中村氏に協力を要請しました。中村氏は藤枝の一言弥太郎氏、カネ三西野商店、笹野貫一、川崎町(現榛原町)のカネ吉大石商店、島田の再製業者とはかり、平和製茶 (KK) を北番町につくりました。BA商会の焼け跡の一部を借り、工場、倉庫を建設、戦前のBA商会の茶方(仕入主任)を名儀上の社長と仕入主任に兼任させ、専務には中村円三郎氏が就任し設立されたのが戦後の静岡貿易市場の第一歩でした。
しからば静岡の旧再製業者の動向はいかがであったかというと、第一人者であった伏見製茶を始め、駿静、静岡製茶、静北製茶などの各社は復興再建の意志は更になく、サス吉武田、マルは山本など個人再製も当主が死去され、それに加えて静岡茶業界の大御所吉川覚次郎氏も新円切替の二日前病気が悪化し死去され、対米輸出茶経験者は全部姿を消し全滅の形でした。対米輸出の前途をうれい立ちあがらせたのは、戦前の駿静製茶の専務故青野直次郎氏の子息銀次郎氏(終戦迄は東部茶専門の内地再製業者)と日本紅茶の専務柚原慶二氏と吉川省三氏でした。この三氏が主体となり、青野氏は北番町(現朝日茶業の所)に貿易工業会の名称で再製工場を建設し、日本紅茶も北番町に工場を、そして吉川氏は安西三丁目で再建を目ざしました。個人再製としては、サス吉武田、マル辻辻商店が再建を目ざしましたが、サスカ石垣商店、ヤマか伊藤(春吉)商店などは姿を消しました。
一方内地問屋筋で戦前その取引を牛耳っていましたヤマ上水上本店、ヤマ小小山商店、カネ小金子商店の三大商店を始め、ホシK河村商店、マルウ宇和商店などの姿はなく、石川四方蔵商店、成岡商店、赤沢屋望月商店などに復興の気配がありました。終戦前迄は荒茶を主体に取扱っていたカネ八鈴木亀吉氏が北番町に工場をつくり、内地問屋としてサスボシ小林市蔵商店と共に着々と営業を開始しました。また、古河(茨城県)のマル善・古橋兄弟が安西に進出、工場を建設し、丸善製茶としてお目見えした事は内地問屋に大きな衝撃をあたえました。
さて、静岡茶業の大黒柱である対米貿易の再製業者はいかがかとみますと輸出茶再製の大元締めである吉川合名主吉川覚次郎氏、釜茶専門の伏見製茶(伏見孝、吉永両氏)、駿静製茶の青野直次郎氏を始め静岡製茶、静北製茶、マルは山本など有力再製業者の復活はなく、サス吉武田安太郎商店(二代目)とマル辻辻安吉商店の唯二軒のみが再建を始めたのみで、戦前対米釜茶取引をした人は一人もいないという悲惨な状態でした。
この状態を苦慮し、アーウィン、ヘリヤ両商社の来静はある事と考えられ、静岡市貿易茶市場の再建に乗り出すために日本紅茶の柚原慶二専務と青野銀次郎氏と吉川省三氏の三氏と鈴和商店の輸出部主任の時田松蔵氏が加わり協議をかさねました。貿易市場再開については、まず再製工場の再建が第一であるとの結論と敗戦国日本がとるべき外貨獲得には貿易の再開という政府の方針に同調するには資金の必要があり、それを農林省を始め県の援助を得る事が静岡貿易市場再開の最大条件であるとしました。
青野氏は貿易再製工場を貿易工業会という名称で建設し、これには茨城のマル善・古橋商店も加わりました。吉川省三氏は第三通商を、ヤマ吉吉川合名は当主が若いので省三氏の弟嘉四郎氏を社長として再建しました。時田松蔵氏(鈴和商店)は不幸にも中途病魔にて死去されましたが鈴和商店の鈴木正一氏が再建に乗り出しました。日本紅茶の柚原専務は北番町に工場を建設し、貿易筋の再製業者の再建の大勢は整いましたが、大手伏見製茶の姿のない事は一抹の淋しさを感じました。
一方、グリ茶、紅茶の再製の大手ヤマ新本目、ヤマ一前源、カネモ朝比奈、マル文佐藤、サス二浜佐、サスニ若松商店なども再建を始めましたが、全体的に空襲の打撃が大きく困難の状態でした。その点を考えた柚原日紅専務が従来から農林省筋に知己が多かったのでまず農林省農業課の理解を得、又、時の県知事と吉川省三氏は二人で懇談し、特に柚原氏独特の話術を以ってある程度の補助を受けられる大勢をつくりました。
一方、紅茶、グリ茶の輸出の今後の成行きについては紅茶に関しては、日本紅茶(三菱)柚原専務と三井物産の茶業部長浅原氏の努力により輸出の目安がつき、グリ茶については大石太郎衛氏(戦前荒茶委託問屋マルイ大石屋の主人)をアフリカに派遣しましたが、当時モロッコはフランス領でありフランス政府のビザがなければ入国出来ませんでしたので、まずパリのフランス政府当局に交渉しましたところ、フランス政府はビザの交付を拒絶しましたのでパリでモロッコ向け輸出している業者と話をするだけにとどめ、やむを得ず帰国しましたが、その話合いの中に輸出可能の報告がもたされておりました。
そこでグリ紅茶を終戦迄再製した業者即ち内地再製の復活は是非共必要でしたので、斉藤県知事と再三にわたる交渉の結果、第一回分として一千万円の援助の公約を得ました。しかしそれには個人でなく組合を対象という条件がつけられました。
この条件は農林省関係でも必要なため、青野、柚原、吉川省三、時田氏に小林誠一郎氏が加わり協議し、静岡市茶業組合の再建をきめ、その第一回の総会を農業会の事務所の二階で開きました。
この総会で役員には
組合長 青野銀次郎氏
副組合長 小林誠一郎氏
副組合長 マル文佐藤其一氏
専務理事 鈴木 靖氏
で名称は静茶協組合と変わりました。
この総会には輸出業者、再製業者、内地再製、委託記問屋、売込商組合(今の斡旋業組合の前身)の当時の静岡に在住の店舗は大体出席されましたが、終戦前の内地問屋組合を牛耳っていたヤマ上水上房吉商店、ヤマ小小山、カネ小金子の三氏は不参で、出席されたのはサスボシ小林誠一郎氏、鈴和商店、マルモ森商店、イジュウ伊藤商店の数店にとどまりました。水上房吉商店の不参は何を考えておられたか今でも不思議に筆者は思います。
専務理事の鈴木靖氏は県の推薦で統制組合茶業(輸出部)におられた人で、輸出関係者は人となりを知っておりましたが、内地再製筋には知人がなく、売込商の連中が発起人の依頼を受け説明にいきましたが、同氏は対話が上手でしかも態度もやわらかく適任者でした。
また、柚原氏は日本紅茶(KK)と関係上相談役として組合に協力されました。
組合が結成出来た事を青野、小林、柚原、吉川と専務の鈴木靖氏とが斉藤知事に報告し、第一回の茶業復興資金一千万円の交付を得て、これをすでに工場再建にかかっていた内地貿易再製であるヤマ新本目、カネモ朝比奈、ヤマ一前源、マル文佐藤等に再建補助金として分配しました。
これにより静岡茶業界は一つのまとまりが出来ましたのと同時に、業者復活の気運は高まり水上房吉商店も三代目がきまり(現組合長)、組合に加入したのを始めとし、他の内地問屋の連中も是につづき、それに加えて永年の荒茶取引と得意先を獲得された努力の結晶の模範ともいえるカネ八鈴木亀吉商店、成岡商店主の成岡浩次郎氏の加盟などにより組合は組合員の数も増加し、北番町に組合事務所を新築し、静岡市茶業の元締めは確立されました。
ここ迄をつくり上げた青野、柚原、吉川省三氏と同調して努力された小林誠一郎氏、鈴和商店の努力は今の時代の若き方にはいいしれぬものがあります。
一方アメリカの日本茶輸入業者の動向は終戦と同時に、戦前来静した商社の内アーウイン、ヘリヤ商会は特に関心を持ち、昭和二十四年にその輸入社を代表して、ヘリヤ商会社長(戦前に来静された長兄は終戦間近に病死されたので、その弟さんのフィリップヘリヤ氏が社長となった)が始めて来日され、業者の代表と話合いの結果、各種釜茶、アイノの見本をまとめて持参されて帰米されました。
しかし、その見本を造りますのに、工場は静岡になくしかも統制時代でしたから各地の農協茶業部から荒茶をとりよせ、その茶を藤枝、島田の郡部再製業者に製造させました。日本茶業(KK)の柴田社長が若い頃から、古谷西村商会、つづいてBA商会につとめられて、釜茶、ァイノのアメリカ向け茶の形状、合組(ブレンド)などに精通されておられたので、先方に十分満足する見本をつくる事が出来たのです。
ここで付言にはなりますが、ヘリヤ、アーウイン両商会とも工場は全部焼失しましたが、両社の住宅は幸いにも空襲の被害をまぬがれました。
その翌年ヘリヤ商会主が買い付けに、つづいてアーウィン商会はマッケンジー夫妻が来静されましたので、対米輸出はあかるい見通しとなりました。
しかし、ヘリヤ商会は戦前は荒茶を専門に買付け、自工場で再製しておりましたが工場焼失のため、仕上茶を買う以外ないのでいささか感じが異なりました。
アーウィン商会のマッケンジー氏は静岡へ到着の時出迎えた業者の中に同社が始めて静岡に店を持たれた時以来同氏の買付けの相談役(店員)であった青木茂三郎氏を始め、売込みに毎日会社を訪れていた所謂常人の伏見製茶の吉永氏、カネ万中村来吉氏、武田安太郎氏、焼津のマル合服部氏など親しくしていた古知人の姿は一人もいませんでした。又、マ氏自身も歳をとられやつれておられ元気のないのを著者は感じました。
そして駅に出迎えた青野組合長(未知)と挨拶を交され、著者の姿を見てすぐそばに来られ握手をし、二・三日間の内に会うと約束された事は今だに深い思い出です。
そして来静の翌々日、電話で長嶋支配人からマッケンジー氏が会いたいから自宅へ来るようにとの事、早速私が訪ねましたら長嶋氏が立合われ旧知の再製業者の動向と現状を質問されましたので、吉川合名吉川覚次郎氏、カネ万の中村来吉氏、武田安太郎氏、マル合の服部氏と社員青木茂二郎氏の死去と伏見製茶が再建の意志がない事と静北、静茶も伏見製茶と同じで姿を消す事などを主体として話ました。マッケンジー氏は、伏見製茶の廃業に殊のほか落胆されました。その原因は釜茶の上級、中級の性吉品は伏見製茶を主体に仕入れられていたからといえます。
なお、マ氏がゼンソクの為非常にやつれておられるのを私は感じ心配になりました。
そしてアーウィン、ヘリヤ両社共工場がない為、荒茶を仕入れての再製の出来ない事を残念がられていました。特にヘリヤ商会は横浜時代から静岡に移転しても荒茶を自己の工場で再製し、再製茶は特殊茶を仕入れる以外は全部荒茶を買付けられた関係上県下の再製業者とは付合いが少なくその点を非常に懸念されました。
両社が終戦後再来静された時の事はこの辺で筆をおきます。
次に終戦後一番さきに業者と対談し、日本茶業(KK)
までつくらせ、話題の多かったハキム氏は、アーウイン、ヘリヤ両社が再来静する事を知ると日本緑茶の対米取引は自己では望み少なしと感じ日本茶の取引をあきらめ、帰米後も音信もなく、従ってその関係者を唖然とさせました。ハキム氏はユダヤ族であり、ユダヤ人の商取引は見込みがないと思えば、すぐさま一変して関係者の迷惑などは更に考慮に入れないのが特徴です。
さて、ヘリヤ・アーウィン両商社は先年ヘリヤ商会主が持ち帰った見本を標準にその内の数種を輸出組合に注文しましたので、輸出組合は茶が統制下にありましたので、産地農協茶業部にそれに適する荒茶を注文し、その荒茶を再製業者に配分させました。しかし、静岡市業者は工場の建設が未完成でしたので、その大半は経験のある島田(振山X 藤枝の業者が加工再製し、各農協がこれを集荷し、輸出組合に送荷しました。そしてこの釜茶を前に述べました日本茶業(KK)の柴田氏が主となり配合し、両社に提供しましたが、製品の中には不適当な茶もありこれは日本茶業(KK)にて再加工して間に合わせました。
日本人輸出商社としては、静岡茶直輸(KK)が再建し、またBA商会の池田社長は静岡で戦災をまぬがれた羽鳥の工場を拡張し、事務所は戦前の北番町の所に倉庫もふくめ、池田氏独特の商法をもとに再出発しました。
値段の交渉には幾多の問題がありました。その一例としては、日本の量目の計算が貫からkgに変わりました事や、すべての物価の高騰もあり、特に農産物は戦前に比較して、非常に値上りしておりました事などにより値段の交渉に影響がでました。
しかし、互いのゆずり合いにより第一回の商談は成立しましたが、その数量は戦前に比較して大きく減少しました。
ヘリヤ商会は事務所を直輸の三階に、アーウインは県生産連の三階に事務所を借りましたが、両社共工場再建の意思はみられませんでした。対米輸出が期待した数量にはなりませんでしたが、再開された事は業界の喜ぶべき現象でした。
そこでこの輸出茶再製によって出ました約二割の出物(棒、頭、フワ、粉)の回収についての仕事は、輸出組合の青野、柚原、吉川省三氏等幹部が協議の結果、その集荷を売込商組合(現斡旋組合の前名)の在静者の筆者
を始め横山勝蔵、藤波、大塚氏などと委託問屋マル八も加わり各地の農協に集荷してありました出物を取引交渉にあたりました。
しかし、小笠郡、磐田郡の農協はその集荷をこぱみ、仲々苦労をしました。
そして、輸出組合に集荷された出物は、大阪、東京、神奈川の各府県組合の代表者、組合長及び幹部が総出で来静され、競争的に運動されましたので、輸出組合もその割合に苦心した事は今の時代では考えられぬ事です。
この出物集荷に売込商の在静者が協力した事は、関係者に感謝されましたので、これを機会に売込商組合を復活する気運が高まり、青野銀次郎氏などから売込商の名称を茶斡旋業組合とする方がよいのではないかといわれ、斡旋組合と名称を変えて各自が戦前の如く活躍することになりました。
茶統制解除
昭和二十二年統制が解除され、昔にもどり自由取引となりましたが、静岡茶市場の取引には戦前と比較して大きな変化がありました。
その第一はアーウィン商会の石蔵建ての三階の工場もなく又、ヘリヤ商会の一町四方有余の工場もなく、伏見製茶は姿を見せず、富士製茶、吉川合名は、吉川合名は規模を縮小し、連合会議所も焼失して姿はなく、貿易茶の中心地は敗戦のかなしさを業者の頭に深くしみこませました。
この状態の北番町にアーウィン商会は県生産連の事務所の三階に事務所を設け、又ヘリヤ商会は復旧した静岡茶直輸出(KK)の二階に事務所をつくり、釜茶の仕入れを開始しました。
これより先、統制中に日本紅茶(KK)は丸子から会社を北番町に移し、工場も建設し、また青野銀次郎氏は貿易工業会(KK)を設立し、これには内地再製の有志及び古河のマル善古橋製茶(古河の有力内地問屋)の社長も加わり貿易再製の設備を完備しました。BA商会の池田謙三氏は旧位置に事務所工場を建設し、その所有地の一部を日本茶業(KK ・新設)に貸し、柴田氏が社長
となり郡部の釜茶及び荒茶再製の設備も完成したので、統制がなくなりましたと同時に、日本紅茶と共に営業を開始しました。
この様な状態でともかく北番町が日本茶貿易の中心として再び復興する事になりました。内地問屋関係では戦前、静岡県下の内地向け茶の相場を左右したトップの三店のうち、ヤマ小小山、カネ小金子の両商店鮭仮伸せず、ヤマ上水上商店は当主が若き三代目(芳郎氏・現静岡茶商工業組合理事長)と変わりましたが、身内で若き主人の盛り立て役であり再建に協力すべき島村藤兵衛氏が板山氏と共に去り独立し、また店員の加納茂二郎氏が辞任し、店の目の前に独立店舗をかまえるなどの苦難を独立、独歩の努力の結果と売買双方の得意先からの声援もあり、復興された事はよくやられたという一言につきると思います。
また、ホシK河村商店、マルウ宇和商会も廃業同様の時、新規問屋として大きくあらわれたのが、カネ八鈴木亀吉商店で北番町に店舗工場をいち早く建設されました。鈴木亀吉氏の父は愛知県の出身で、静岡市安西に開店され、若き亀吉氏と共に茶業界入りしてあらゆる苦難を乗り切り、荒茶取引から始まり、内地取引の地盤をつくられたいわゆる苦労人で、統制解除と共に茶業者だれもが考えていなかった新販路(その取引先は営業に関係しますので明記をさけます)を開拓されて、工場を建設された事は業界に新風を吹き入れたといえます。
また現成岡甚三商店次男成岡浩次郎氏は永年の経験を生かし独立され、主和商会を茶町に建設し、業界に新風を入れた事も静岡の業界に大きなプラスとなりました。その他にマル十長野商店、マルヒ産業などが従来の問屋の中に加わりました他に古河の卸問屋のマル善製茶が安西に新しく店舗をつくり荒茶から再製の設備をつくりました事は在来の問屋の一つの驚異です。
次に内地再製はいかがかというと在来の大手ヤマ新本日、ヤマー酬源、浜佐、マルモ森、カネモ朝比奈、サスニ若杉商店を始め変化はなく、ただ新しく杉本商店が錦町に店舗をつくりました。
次に委託問屋(荒茶)は水上委託部、大石屋、マル八国産などは皆姿を見せず、ただ一軒サス中牧野商店のみとなりました。
次に私の所属します売込商組合は統制により農協関係の仕事をしておりましたが、マルカ杉山、カネト野中なども復帰しましたので、八千代町の横山氏、マルカ杉山とマルニ大石が相談し、前に述べました統制時代に輸出茶出物集荷にたずさわりました関係も考慮し、名称を静岡製茶斡旋組合と変更しマルカ杉山金治氏を組合長としました。
また、県斡旋組合を設立する事を決め、カネ源杉山友作氏を組合長といたしました。
そして組合員の承諾を得て、 一致協力し茶業復興に努力する事を誓いました。
市川金吾、半場(兼)氏も復帰し新しくマル八国産の望月、小川、斉藤美智雄氏の東部連合、大島国造氏などの新加入もあり、戦前よりも組合員が増加し、各自に店舗も持ち、静岡に各産地からの荒茶の集荷につとめましたが、各産地にも変化があり戦前に比較し集荷には多くの困難がありました。
最後に小売商組合の動静はいかがかというと、これは竹茗堂がトツプに立ち他店との開きが大きく一人舞台といっても差支えない状態でした。
さて静岡市内の状況はこの辺で一時おき、目を郡部に移しますと、全体的には戦時中の空襲の災害も受けず、一部の大工場が軍部にその建物を押収された以外に変化はなく、ただ伝統があり茶業界の大御所であったカネ万中村円一郎商店が円一郎氏の死去により茶業部を廃止された事は業界に大きな淋しさを感じさせました。
しかし、藤枝方面はヤマ一本店、カネ三西野、マル冨一言などの釜茶の製造の設備のある商社も設備に被害はなく、島田市のヤマ二、マル三(振山)、掛川のサスナ笹野、袋井の大矢再製なども釜茶の製造には支障がなく静岡の釜茶工場の全滅を機会に静岡から郡部に移った事は大きな変化といえます。
内地問屋筋も前記の郡部商社に加え、藤枝の藤栄、島田の原田などの新顔の活躍は目を見はるものがあり、中でも原田は静岡の斡旋業者の店にまで出張し、荒茶の仕入れを毎日した事は業者に大きく反映しました。また、掛川には在来の老舗カネモ角替を始め皆健全であるのに加え、中内田村(現菊川町)の旧マル共揉切製茶の跡の
カネ上佐々木商店の進出は目ざましいものがありました。
このカネ上佐々木製茶は戦前は荒茶製造のみでその生産も日に十本程度のいわゆる精揉機屋さんで私の店でその製品の販売斡旋をしました。性合いと形状のよい茶で内地筋問屋に一番ばれた製茶でした。
このカネ上佐々木が内地問屋となリマル共揉切製茶の関東における地盤をつがれ、たちまち掛川茶業の第一になられた事は実に立派で中内田の性吉の茶をいかした努力の結果と私は敬服しております。
また県下各郡部に根をおろしている農協は戦前の産業信用組合の跡を受け、県下で発展していた小笠郡の各組合(カネ共、土方、大坂、川野、笠原、愛野、法多)の性吉茶の貿易筋で特に歓迎した茶を静岡に荒茶で出荷し、この方面の茶をヘリヤ商会が好んでおり、大体全部の六割は同社で買入れたのが終戦後は自組合の工場で再製し、組合関係に製品を出荷し、荒茶で静岡の市場に姿をあらわさぬ様になりました事は、貿易に大きく影響しました。
対米釜茶(バスケを含む)の取引は戦前は静岡とその地の郡部(藤枝市、島田市、掛川市を含む)の取引高の比較は大体七対三ぐらいの割合いでしたが戦後の割合いは静岡の空襲被害のため二対八と反対になりました。
しからばなにゆえに小笠、牧之原の茶が貿易市場の静岡に入荷されなかったかというと、産額が戦前に比較して少なかった事と他元内地問屋筋の仕入れが静岡の業者が災火により全焼し、取扱い高の減少の余波が郡部にうつった関係から、関東、東北また特に上茶の需要地東京都の問屋筋が産地へ直接仕入れに出張するなどの関係から貿易向きに出荷する余地がなく、また小笠、榛原の農協が貿易に荒茶の出荷をする意志が全然なかった事が大なる原因です。
また牧之原大井飛行場跡は米軍が農地開放により小作人に払下げられ茶園として復活する様になり、茶業者には喜ぶべき事ですが、ここでも農協が榛原北製茶工場を設立、荒茶製造再製設備までつくり肥料、食料及び土地買入れの資金の供給をした関係で生葉の大部分は農協により集荷されました。その影響を一番に受けたのが島田の精揉機屋で戦前四軒ありましたマルカ、マル仲、マル共は廃業しました。この四工場で戦前は茶期中に毎日約三百本(四十㎏入) 程度の荒茶を静岡へ出荷しておりましたがそれがされなくなった事も静岡市場のさびれる原因の一つでした。
この四軒の精揉機屋の内マルカ萩原は遠州一の工場で、毎日百三十本五千三百聴の荒茶を製造しておりました。
以上が統制解除当時の県下茶業界の状況です。
昭和二十五年、ヘリヤ、アーウィン両商社が来静され、自由取引の第一歩を踏出しましたが、釜茶は静岡ではまだ工場が未完成ですので釜茶の大半は郡部の再製業者に独占されたと言えます。
グリ茶もモロッコ、アルゼリア方面に多少輸出が始まり、これは静岡の業者により輸出され、紅茶は日本紅茶が相良町萩間及び榛原町の鹿島などに特定発注して製造させるなどして貿易方面は一応昔時のおもかげをみせ始めました。
しかし、戦前と異なり牧之原以西、特に小笠茶の静岡への出荷が少なく斡旋業者も苦慮して努力をしましたが、農協の力がつよく小笠郡では農協自体(各町村)が内地販売を始めましたので静岡への出荷は少量となりました。そのためアメリカ向け釜茶の性合いが思う様に出来ず、その点静岡のみならず郡部再製業者を苦労させました。
対米輸出が再開されて一年もまず以って、ヘリヤ、アーウイン両社の努力により輸出出来ました事は、前途に業界に明るさを増しましたが取引高は期待した数量に達しなかった事は残念でした。
これには戦前に比較して品質が低下した事は一つの原因と思います。その証拠にはその翌年、新茶の盛期にアーウインとマッケンジー氏が私の店に電話で荒茶の見本を数種持ってくる様にとの事ゆえ、直ちに持参し直接話しましたところ、河城のマル大大石製茶の荒茶を五十本(約二千贈)を買入れ委託再製させた事は小笠、牧之原の茶が少なかった事によるものでした。ただこの委託加工する工場がなくつづけて荒茶の仕入れが出来ず、マ氏もその点非常に残念がりました。またヘリヤ商会主も私の店を訪問され、荒茶取引の状況を見学された事も異例の事でした。
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茶の輸出が静岡に移りまして約八十余年の歳月は流れ、世のうつりかわりには戦争、そして敗戦は別として大きなものがあります。
一例を言うならば静岡の貿易茶が開始されてから現在も茶業に専念されている方は、輸出で富士製茶株式会社と再製業者でヤマ吉吉川合名会社とヤマニ成岡謹三商店(昭和になり内地向へ転向)の三社のみと言う事は淋しいきわみです。そして、私の記憶に静岡の茶が今日迄発展して業者として特に残っております方は、大谷嘉兵衛氏(日本製茶株式会社初代社長)、駿静製茶を設立した先先代水上房吉氏、伏見製茶、吉川合名社長覚次郎氏、外商でゴットリープ氏、マッケンジ,―氏、ヘリヤ商A「古谷竹之助氏、
そして茶業青年団を創設した小山金作氏、日本紅茶の柚原氏、富士製茶の創立者原崎源作氏だどで、これらの方々は静岡茶に心血を注がれましたが今は皆様すでになく、ここに改めて御冥福を祈ります。
平成二年八月
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
- 2026.10.22
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