貿易茶物語
貿易茶物語 第6回 外国商社と代理人・世界へ広がる日本茶
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第6回
貿易茶物語 第6回
外国商社と代理人・世界へ広がる日本茶
大石 鵜一郎 著
外商の変化
茶の輸出が横浜から静岡へ移動して十年余を過ぎその間に世界第一次戦争がありました。十年には戦争は終結しましたが、その影響で世界の地図も変わり、米国経済界にも変化があり、茶業者にも変化があり、中でも英国人経営のジャーデンマゼソン商会(英一)とハンド商会は日本茶の買付けをやめ、したがって来日せず静岡の工場も閉鎖されたのを始め、ピーターソン商会、フォルジャー商会も来静せず、貿易筋再製業者は一抹の淋しさを感じました。
しかし、ヘリヤ、アーウィン、ゴットリーブ日本製茶(メーシーを含む)、富士製茶、村井貿易(古谷、西村両氏が死去のため、その地盤を引きつづき古谷西村商会の支配人であり、アメリカ通であった本間義三郎に茶の営業を一任し、茶業界に足を延した商社です)が前年以上の取引をし活気をとり戻しました。
そして取引の中心はアメリカ、カナダ両国への貿易が相場の中心でありますが、内地の需要も年々増加し茶業の中心は静岡である事には変わりありませんでした。
さて、ここで大正十年頃から静岡茶業界の状況を顧みますと第一貿易筋では世界第一次戦争の終結にともない世界経済界の変化に大きな影響がありました。
第一に世界経済の中心がイギリスからアメリカにうつり変る実状となった事と、今迄海運界に君臨していったイギリスが、米日船舶業者のめざましい進出により、その地位が侵食された事で特に日本の海運界の日本郵船(KK)、大坂商船(KK)、東洋汽船の三社の進出には目をみはるものがありました。
従って、アメリカ茶業商社でもその影響を受け、英国人経営の英一番(ジャーデンマジソン)、ハント商会などは日本茶の直接買入れをやめ、ピーターソン商会、フォルジャー商会なども静岡での買付けをやめた一方、アーウィンハリソン商会は英一番の跡へ店舗をうつし、そして間もなくホキットニー商会と合併し、仕上茶と荒茶の再製も始めたので、外商で荒茶を仕入れるのは、ヘリヤ商会とアーウィンホキットニー商会の二社と、仕上茶専門に仕入したシッグフリード商会と富士製茶が貿易の大半を占める時代がきました。
代理人組合
私も大正十一年荷主代理人組合に加入させて貰いました。又、榛原町出身のマルヤ飯田氏も茶町に店舗をつくり加入しました。
当時の荷主代理人は仲次人と同じく茶業組合から身分証明の鑑札をもらい、店員には平素必ず持参する事に定められていました。
そして斡旋料は一貫目三銭で居付き仲次との配当は四分六で各社の専属仲次は委託問屋の払う口銭が一銭でしたから荷主代人の手から取り引きする方が得であった事も荷主代理人に有利に展開したのです。そして製茶売込荷主代理人という名称が長いので茶商間では代人という名称が使われました。
なお、余談ですが製茶売込荷主代理人産みの親のカク二鈴木幸圭吾氏の孫にあたる方が、最近まで茶市場に勤務されていた鈴木幸一良氏で、昔を忘れず籍を現在の斡旋組合に置かれ祖先をうやまう心境は立派です。
古谷、西村商会も明治貿易となり間もなく、当時の実業界の大手村井貿易(KK)と変り三井、三菱、大阪の岩井商会なども茶の輸出に大きな感心を持つ様になった時代です。
大正十一年から昭和になります間に貿易筋の古谷竹三助氏の死去で村井貿易は廃業し、池田本間商会となりシーグフリードシュミット商会、フォルジャー商会、ピーターソン商会などの外商も姿を消し、伊勢の伊藤製茶部が英一番を借り受け貿易を始めました。世界第一次戦争の影響がアメリカ貿易にも大きく影響し、そのメンバーも変ったのです。
米国の経済界で物価が下落し、一方内地も不景気風が吹いた関係で茶の相場も下落しましたので代理人組合も協議の結果、一時斡旋料をメ当たり二銭五厘として業界に協力しました。
関東大地震
大正十二年関東大地震により東京、横浜は全焼の災害を受け、それ迄東京以北すなわち関東、東北一帯と北海道を主体に取り引きしていた東京の製茶問屋も全焼し、その在荷も焼失した事は誰もが想像しなかった事です。この大地震の発生した時私は店で(三番茶の末期でした)牧之原のカネソ藁科という仲買店主と値段の交渉の最中で、ソロバンを持って相対していた時で、持っていたソロバンを落し、店にある見本缶は勿論すべて倒れる始末で、家から皆飛び出し電信電話は不通となり、余震を受けながら一夜を一番町小学校の校庭であかしました。現在東海地震を予想し、あらゆる施設をしておりますが、関東大地震を身に受けた人は皆完全防備の必要性を感じています。
この大地震により国家も内閣が変わる程でした。九月になり茶の需要期に入りましたが、東京の茶問屋もその建直しが困難であり、東京の問屋を通じ取引のありました関東、東北から静岡を始め県下の問屋筋に照会、発注があり静岡の内地問屋は、新しい販路が開かれたのです。そして問屋も又、この機会を利用して、販路の拡大に努めた事は、静岡の内地問屋が内地取引の中心となっている一つの原因と思います。
グリ茶
九州嬉野の近在の旧農家の庭先に、現在でも楕円型の釜がすえつけられているのを見かけます。
この釜が明治以前からその土地で栽培されていた茶樹から茶葉をつみとり、そのまま釜に入れて焙じ、これを精揉機にかけず手でまるめて仕上げたのが、グリ茶の始めです。
この製法が九州の一部に始められ、これをその土地の人々が家庭用の飲み茶に使い、その伝統が現在迄つづき、製法は改善されましたのが現在嬉野の釜炒茶として特産品になっているのです。
この釜炒茶を煎茶と同じく蒸して製造する事を考えたのが九州で考案されたグリ茶の始まりで、この製法の方が多量に出来、しかも一番茶の始まりから製造し、味も伸茶より濃いので九州人の好みに適したのです。
しかし明治時代にはその産額が少なく、全部土地で消費されましたので、貿易茶が横浜市場の時は当時の横浜の荒茶委託問屋の仕入帳を見ましたが、グリ茶の仕入れは記入されていません。
従ってグリ茶の貿易への取引は大正時代からといえます。
大正六年当時静岡外商の仕入でトップクラスで、輸出茶商間の人気者でもあり、静岡茶に大きな理解者であったゴットリーブ商会主が例年より早く二月の上旬に来静され、もっとも取引の多かったヤマ吉吉川覚次郎と極秘裡に会談され、グリ茶見本を見せ、静岡茶にてこれに近い茶の製造を依頼し、相当の数量を注文する事を打合わせたのです。
そこで吉川氏は、不二見組合(現在の清水市)と堀の内(現在の菊川町)の二工場の主任と相談し、一番茶、二番茶のグリ茶の製造を極秘の内に契約し、これに釜茶(PF)の小型、及び改良茶をブレンドした茶でゴットリーブ商会と契約したのです。数量は、極秘でしたので適格にはいえませんが、約四十万キロ位と思います。この取引はゴットリーブ商会が取引したのではなく、この前年にアーウィンハリソンエンドクロスフィールド商会が、ゴットリーブ商会を買収し、この取引はアーウィン(略称)商会のゴットリーブであった事が取引後、判明したのです。
この取引がグリ茶の本格的取引の最初といえます。そして、その翌年つまり大正七年にアーウィンハリソンエンドクロスフィールド商会のアーウィン氏がマッケンジー氏を同伴来静、ゴットリーブと手をきり、来静して店舗を新築、再製茶の買付けを始め、グリ茶も前年程の数量迄は買付けませんでしたが、多少買付けました。この時のグリ茶は、今考えますと欧州第一次戦争によりアフリカ方面に緑茶が不足していたので、アーウィン商会がアメリカを通じその方面に代用品として買付け、輸出したと考えます。この事は、静岡茶が、釜茶、バスケ、アイノと輸出されていたところに新風を吹き込んだといえます。
時代は昭和となり、荒茶も内地向きと貿易向きと製法も二種類になり、昭和二年ソビエトとの間でグリ茶の取引が開始されますと、庵原の製造家が先ず第一に製造を開始し、荒茶製造業者(この生産家を市場では精揉機屋と呼びました)は直接荷主代人の所へ見本を持ち地方仲買人を介さず再製業者に商談をする者が次第に多くなりましたので、グリ茶の荒茶の取引も代人組合員の手により商談される途が開かれたのです。
グリ茶は対ソ取引が毎年ありましたので、精揉機屋でも、島田を始め小笠の一部と榛南でグリ茶の製造する工場が年々増加し、直接代人組合員を介し取引されました。
伸茶も特殊の茶をつくる自園の生産家及び設備の大きい製造業者も代人を通じ貿易筋との直接取引出来るのを満足し、代人組合員も受け入れを歓迎し、組合員は各産地の製造家に静岡への出荷をすすめ、欠点のある茶はココを直せなどと注言をし、品質改良にも尽くし、代人組合による商談に満足を与えた事は、今にして考えれば大きな取引の変化と茶業の発展に尽くしたといえます。グリ茶の取引数量は次表のとおりです。
この十年迄つづき茶園増反に拍車をかけたのです。
従って、荒茶製造業者も従来の仲茶とグリ茶の二種類となり、グリ茶は貿易筋でも香味、水色の点で伸茶程やかましくなく、形状に重点がおかれましたので、庵原郡を始めとして東部地区では特に設備が大型化し、又、榛南、島田方面でも製造が大型化し、したがって荒茶製造業者の一日の製造高も多くなってきました。
この点に着眼したのが、静岡の私の所属していました代理人組合です。
ソビエトへの輸出
ホキットニー商会を買収合併し、ホキットニー商会の所に移転し、荒茶再製所も建設し、名実共に日本茶輸出の王座につかれたマッケンジー氏夫妻の日本茶に対する功績は誠に大きな物があり、県下再製業者もその恩恵を受けた事は言を待たぬのであります。
マッケンジー氏に就いては、私は来静以来静岡で一生涯を終られてまで、取引をさせて戴きましたので、資産凍結の時を始め、種々の出来事がありました。
前年ゴットリーブ氏が吉川合名からアーウィン商会の名義で仕入れたグリ茶は大正七年には仕入れ量も減少し、他の釜茶と同じ様な形式で買入れされました。
そしてその翌年大正九年には、グリ茶の買付けはまずなかったといえます。
従って九年以降十三年迄は、グリ茶の輸出は中絶したのですが、大正十三年の秋頃から私の観測によりますと、アーウィン商会はソビエトの通商外交部が支那の上海にありましたので、日本茶のグリ茶の取引に関し、秘かに交渉をしていたと思います。
ただ取引の条件がソビエトは支払いが長期でしたので、その交渉が難行したと思います。当時支那茶の仕入だけでは、ソビエトは茶が不足していた事は事実です。
その交渉が大正十五年に両者間でまとまり約一千万封度の輸出が実現したのです。
この商談がアーウィン商会とまとまる前に我が国にも他の商品と一緒に交渉があったと思いますが、支払いが長期でした関係で取りあげられなかったと考えます。
しかしこの商談は、茶業界にはアメリカへの輸出のみでは心細い時の事ですから喜ばれ、又業界将来の為、大きな刺激となり荒茶製造機、即ち揉除機及びガラ機などに、松下、高林を始め機械メーカーが日本茶に合う機械を考案し、精揉機屋もこの取引に再製業者と一心同体となり、日本茶のグリとして一人歩き出来る製品が生産されました努力は、静岡県茶業の発展に拍車をかけたのであります。
そして、大正十四年にはアーウィン商会がソビエトと商談を成立させ釜茶とグリ茶の混合合を輸出しましたが、翌十五年にはグリ茶のみの製品を同じくソビエトと協約し、精揉機屋もグリ茶の製造が本格化しました。
その翌年即ち昭和二年には、ソビエトの通商部が東京に設置され茶は通商部で取引する事になりましたが、支払いが長期のクレジットである関係で地方銀行ではその処理がむつかしいものでした。三井物産、三菱商事とかねてから茶の輸出に関心を持っていました関西実業界の雄者である大阪の岩井商会が時の明治銀行静岡支店長生駒氏を介し、吉川合名会社とまずグリ茶谷品の確保をし、取引契約を結び静岡再製業者の有志が静岡茶直輸出組合を設立し、理事長に河村鐘三氏がなり、この二者を加えてソビエト通商部と取引契約を結び茶業者がグリ茶の直輸出が出来る事になり、昭和二年には二百万キロのグリ茶の取引が出来た事は茶業界に取っては画期的な取引であった事と、これによりグリ茶に対する生産家の意欲を深めたのです。
この対ソビエト取引は、昭和十年迄つづきました。
通商部がグリ茶以外に茶の実を多量に買付けました。これは、ソビエトが国営でコーカサス方面に茶園の開拓を始め、日本のみならず支那、インドなどからも茶の実を買いつけ、将来自国で茶の生産をする意志であったといえます。
又、モロッコ、リビアなど中近東の日本グリ茶に対する関心が高まり、昭和十年には日本茶業中央会も鳥居氏をトリポリに派遣し、アフリカの状況の視察を依頼したのです。
当時のアフリカはその多くがフランス、イタリー二国の支配下にあり、鳥居氏も苦労されモロッコ方面に日本茶のグリ茶、特にソーミー(SOWMEE)に意欲がある事が判明したのです。この鳥居氏の派遣には理由があったのです。
それは、昭和七年頃からソビエトへのグリ茶にはソーミー(形状のコマカイ茶)の混入を極度にきらいましたので、ソーミーの在荷及びその販路の拡大に大きな希望があったからです。
ソーミーに就いては、ヘリヤ商会が昭和八年頃からイタリーを通じ、モロッコに極秘で輸出していました。外商は日本人と異り、行き先、又は新しい製品を売出す事は一切秘密で、ヘリヤ商会のこの輸出に関しても知っているのは日本人の社員の内でも仕入主任と会計位で決して口外はしませんでした。当時の外商に勤めていた日本人は、ヘリヤに限らずその点は、事取引に関する限り口外しなかった事は今の若い人達も学ぶべきであると考えます。
話が横にそれましたがモロッコへの取引はヘリヤ商会が口火を切ったといえます。
この取引に就いて当時の貿易筋業者は、ヘリヤ商会がソーミーを買付けるのは釜茶の合組に使うのだと想像し、そのままで輸出されるとは誰も思いませんでした。
この事は当時のヘリヤ商会の仕入主任からつい最近話を聞き初めて知りました。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。
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