貿易茶物語
貿易茶物語 第3回 輸出茶の種類と、値段・取引の仕組み
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第3回
貿易茶物語 第3回
輸出茶の種類と、値段・取引の仕組み
大石 鵜一郎 著
値段のたてかたと取引状況
さて、ここで取引の方法、売行きについて当時の状態を述べる事にします。
その内容は、
釜茶 PAN FIRED
篭茶 BASKET FIRED
アイノ AINO
粉茶 SIFTING
フワ FANNING
{
七割
三割
一割 三分 位の割合でした。そして最低茶はアメリカ政府が規定し、これをUSAガバメント、スタンダード(標準茶)と称し、この標準茶はよく取引されました。
輸出業者により再製茶の値段は、和斤(十六メ)、百斤百ポンド(約十一メ七百匁)の二種で一例を言うと、ヘリヤ商会、ハント、ジャーデン、日本製茶(メーシー)などは百和斤値段であり、ホキットニー商会、ゴットリーブ、シーグフリード、古谷、西村両商会などは百封度でヘリヤ、ジャーデンは荒茶を主体に仕入れをし、取引数量は釜茶は二万封度(ポンド)が基準で八千封度以下の取引は特殊茶以外ありませんでした。標準茶は八万封度の取引がありました。そして火見本取引でしたから売り約五日後が受渡しの大半でした。
篭茶(通称バスケ)は、志太茶が一番適していたので藤枝、島田の輸出再製はバスケ、アイノを作り静岡の業者は大体全部が釜茶の製造業者でした。
そして、各再製業者は取引先が大体きまっており、一例を言うと吉川はゴットリーブ、ハント商会が主なる取引先。伏見製茶はゴットリーブ、ホキットニー商会と言う様な取引状態で為替相場が取引値段に大きくひびき、当時(明治末期から大正時代)は円安の時が多かった関係からヘリヤ商会など外商の荒茶買入れ値段が大体その年の茶相場を造りました。
茶代金の支払いは外商の荒茶仕入は着荷見本と照合し、現金払いで日本の再製業者の内でも伏見製茶や駿静製茶などは、外商と同じ支払い方法でしたのでヘリヤ商会メーシー(日本製茶)、富士製茶、伏見製茶などの荒茶委託問屋を介して仕入れする値段がその日の荒茶取引のその日の相場の基本となりました。
荒茶貿易取引に関しては、直接取引はなく仲介者を通じ行なわれましたのは横浜時代と同じくアメリカ、カナダのブローカー制度が取り入れたのであります。
この取引の方法がアメリカ(カナダを含む) 輸出茶に関しては日米開戦迄連記した外商及び仲介者には変化はありましたがつづきました。
今日この対米日本輸出をかえり見ますと、明治末から大正十年迄が日本茶輸出の最盛期であったといえます。
貿易茶輸出商社の内で荒茶から買付けしたヘリヤ商会、英一、富士製茶、日本製茶以外の商社は釜茶、バスケ茶、アイノ茶の仕上茶を買付けましたが、各社各自の形状、品質に相違がありましたので、注文の茶を再製業者に見せ、それに適する製品の見本を造り商談を進めました。見本取引でしたので荷物の受渡しには、早くても一週間位かかり、再製業者は注文された茶が出来上りますと、その現品の荷口見本を買方に照合して貰いOKを受けて、荷渡しをし、商社の中には、それを再製業者に依頼し本造りとして清水港の指定回漕店迄運搬し、そこへ商社の社員が行き荷物の本拝見をし、荷物の受渡しが完了する仕組みでした。
代金は荷物受渡しが終わると、どの商社も現金支払いでした。
取引の数量は、釜茶では最低が一口八千封度(三千七百㎏)が最低で、大体二万封度位が一口の単位でしたが中には一番茶、二番茶を混合した品の注文があり、私の知る限りでは釜茶三千箱(八十封度)入り、現在の単位でいうと約九万キロの注文が毎年発注されその取引をした事が記憶にあります。
アメリカ・ガバメントP・F(標準茶即ち輸出最下級品)などは一回の注文が八万封度位の取引は度々あり、一度の取引は現在の内地取引とは格段の差があります。
バスケ茶、アイノ茶については、釜茶上り取引の数量も小口でした。
従って、再製業者は、取引が火見本商談の関係から荒茶の仕入れに大きく関係がありますから、売込みには各再製業者共主人自らかそれに変るべき人をして注文の具合い、同業者との値段のつれ合いを見る事が最も必要な事で各店とも特に力を入れました。
一方、買い方も仕上げ茶には特殊の品もありますので、各商社は再製業者を指定しました。
一例をいうとゴットリーブ商会への常連としては、ヤマ吉吉川本店及び北工場、伏見、カネ万中村、ヤマ二成岡、江尻の石貝、バスケ茶で藤枝のカク二鈴木、焼津の服部、古谷商会では日本共同製茶、後の吉川北工場、赤沢屋、ヤマ二成岡、藤枝のカネ三一言弥太郎氏、サスナ笹野徳次郎氏、ホキットニー商会には駿静製茶、カネ久上田、ヤマ吉吉川北工場、静北製茶、ヤマ二伏見、ハント商会にはヤマ吉吉川が主体取引でした。
北番町、安西通りが貿易茶取引の中心になりましたので五月から十月迄の半年間は各工場に雇用された人員も、五千人以上が毎日朝の五時半から忙しい時は夜十時迄出入し、貿易茶の清水港迄の運搬は馬力車を主体に使用しましたので、馬力車に使う馬が北番町の各所につなげられていた風景は、現代人には想像つかないと思います。
又、当時の静岡市の経済界では、輸出茶の取引額が産業トップでありましたので、その方面でも茶業様々で茶業者は幅をきかせたものです。
その一例として外商が四月に来静する時と十月に帰米する時にはその取引先の業者がその商社の人も接待し、歓迎会、送別会を当時の一流料亭、浮月か求友亭で催し、各人が会費五円づつ持ち出し宴会をひらきました。
当時の宴会の会費は県庁などの宴会費が一人一円五十銭位でしたから、いかに茶業が盛大であったかはこれでも知る事が出来ます。
その当時から昭和十年頃迄の北番町一帯の雰囲気と現代の北番町一帯の状況とを比較すると感無量のものがあります。
輸出茶の種類
アメリカ、カナダ両国に輸出された茶は、当初から日米戦争が始まるまで変わりなくその種類は、
釜茶 PAN FIRED 輸出量割合約 60% 推定
篭茶 BASKET FIRED 輸出量割合約 25% 推定
玉茶 NIBS 輸出量割合約 少量 推定
フワ FANNING 輸出量割合約 少量 推定
粉 SIFTING 輸出量割合 一二% 推定
でした。
他にアイノ(AINO)がありますが、横浜時代には篭茶の内に含まれ、静岡時代となりAINOの名称がつけられたのです。その製品の形状は今の内地向け仕上げを綺麗に仕上げた茶でした。
しかも明治四十三年アメリカ、カナダ両国で着色茶の輸入の禁止令が発表される迄日本茶の輸出も支那茶と同様着色されており、その着色の色工合いも各外商が特色を持っておりました。その着色の原料の配合は、横浜時代には主に支那人が受け持っておりましたので、静岡の再製業者の設備は完了しましたが、その点が営業上の一つの難点でしたが、業者が努力して横浜外商に勤めていた熟練仕上者を半年契約で雇入れ、この連中から各再製業者が習いました。
着色茶の輸入禁止
米国が着色茶の輸入禁止を発令したのは、茶に就いては、当時の支那茶の着色がひどくなり、茶をさわるとその手に色が残る着色茶が輸入され、人体に有害と判定し出された法令です。
勿論日本茶も着色されていましたが、支那茶程ではありませんでした。
この着色の原料は支那(現在の中国)で考案されたもので青粉(通称ウグイスと称した着色原料)と黒鉛を石膏と水に溶した中に混入し、薄切りしたものを寒中に日
アメリカとカナダは支那と日本から茶を輸入していましたが支那茶は産地が上海市場からはなれていた関係から着色茶が混入され、アメリカ、カナダで輸入禁止品が続出しました。しかし日本茶は不良品がなく、安心して取引出来るという事で輸出は増加しました。
そしてその年から輸出茶はアンペラ包装の外側へ一例ですが左の通り書かれたのです。
JUGUGEL ORE FOUND
NET
CHOICEST UNCOLORED JAPAN TEA
この表示で思い出す事は、貿易茶の取引の数量の基準はPFは八〇ポンド、B・Fは七〇ポンドでしたから、再製業者が売見本に数量を記入するに百箱と書きますと、八千封度という事になり、通例百とか二百とか売見本には必ず記入しました。
実話
静岡では県下の再製茶業及び荒茶を扱うヘリヤ商
ガラ機
乾して擦り、粉末にした鉱物性の着色原料でこれを再製茶製造の火入れ(つまり再乾燥)の時に茶に混入したのです。篭茶には黒鉛を使用しました。
この茶の原料は、皆支那(現在の中国)の上海から支那の商社が貿易茶外装用に使用したアンペラ及び籐と一緒に原料輸入しました。
原料が鉱物性でしかも微粉で少量の混入ですから茶の水色には影響しませんでした。米国はこの条例は茶ばかりでなくすべての食品の着色を禁止したのです。
この条例は明治四十三年の新茶前に発令されましたので、静岡の茶業者は茶期前の冬にこの原料を造ってありましたので、茶業中央会は検査所に命令して、貿易茶業者に日を定め安倍川の一カ所に集め流して結末をつけました。
今日なら沿岸漁民からの反対でこの様な放棄は許されない事です。
日本茶もこの禁止令にもとづき県茶業組合が検査部を設置し、厳重に取締り、また全国茶業会議所は各県会議所に命じ、着色料を全部回収し処理しましたので、着色による輸入拒絶は一件もありませんでした。
会などから回収した着色原料、石膏黒鉛及びウグイスと称する釜茶用の着色を安倍川に集め流しましたが、今なら公害だ何んだと問題になりましたが、当時はそれがなく用宗海岸から久能海岸まで一週間位海水の色が変った程でした。
着色茶の禁止により貿易茶は、アメリカ、カナダ両国での需要者が純無色の緑茶では、歓迎されませんでしたので、光沢を出す事が仕入側の希望であり、ここで新しく工夫されたのが再製工程で使用する所謂ガラ機により光沢を出す事が再製業者により考案され、釜茶は元より後にグリ茶の輸出が始まりました時には、ガラ機の必要性が一層高まったのです。
明治四十年横浜の工場が火災で焼失したのを機会に安西一丁目に日本製茶 (KK)を設立し、静岡市北番町が日本の貿易茶市場となったのは明治四十五年です。
ここで静岡県茶業界がこの様に新天地を迎え又、清水港が茶の輸出港として日本郵船(KK)、大阪商船、東
洋汽船を始め外国船迄もが茶の積込みの為清水港に寄港する事になりました事は余り知られていない事です。当時の日本郵船(KK) の社長近藤氏(後に貴族院議員となり国家の為につくされ伯爵になられた人物です)は、茶業を愛され明治四十年日本共同製茶 (KK)を設立され北番町に本社を置き、藤枝のサスナ笹野工場、牧之原の内田工場、鷹匠町の東洋製茶と北番町に第四場(戦前の吉川北工場)を建設し、直輸出と貿易再製を始め、日本一の船会社の社長が秘書渥美氏を専務として、古谷、西村両商会を支援し、又直接輸出も行いましたが、アメリカ取引に関しアメリカの商習慣を知らぬ為、ブローカーを使う事を知らずコンサイメントにて取引した為、損失したのと、静岡の茶取引が正常に行われている事を理由に三年目に解散し、東洋製茶と笹野は買いもどさせ、第四工場は、吉川覚次郎氏に売却し茶業からは手を引かれましたが、静岡の貿易茶業界及び清水港の発展につくされた業界のかげの功労者であったと思い、すべて書き綴った次第です。
そして、この売買により吉川北番町工場が生れたのです。
鈴幸、尾崎国産社、マル八委託、カクセ飯田、カクサ渡辺、町田と横浜から移転して来た明石屋などが大量扱う委託問屋でした。
新しい取引方法
時代は大正となり貿易茶の輸出増加に伴ない輸出向け再製業者の数も増加し、従って委託問屋も扱い数量が増加しました。しかしこの委託問屋の荒茶は各地の茶を合組して、見本をつくりますので、貿易再製筋の希望する品質、殊に水色、味に欠点がありますので、産地別の荒茶を貿易筋殊に大量仕入をするヘリヤ商会、英一、富士製茶など大手筋から希望する声が高まりましたのを第一に察し、静岡茶市場の発展にも役立つと考えて、地方の荒茶仲買商(当時の生産家は小規模で、交通関係から静岡市場まで小数量を持ち込む余地がありませんでした)は買入れた荒茶を直接交渉し、その見本を外商始め再製業者に取引する仲介をする販売方法がよいと考え決然としてこれを実行に移し、店員を小笠、榛原を主体に各地の仲買店を説得し、ヘリヤ商会その他の大手筋に売込み仲立したのが今日の斡旋商の始まりです。
一方製品の輸出は、清水港が次第に完備されるにつれ、船会社は全部といってよい程清水港に茶積み込みの為寄港する様になり、茶業王国として静岡はアメリカ、カナダに知られる様になりました。
そして明治四十三年からアメリカが食料品の着色禁止条例により茶の着色も不可能になり色沢をよくする為、業者は所謂ガラ機でよくする事を考案しましたのでこれを機会に貿易再製を開始した業者も増加しました。
又原料の荒茶にしても従来より色沢のよい、しかも味と水色のよい茶が歓迎される時代となりました。特に水色の悪い茶は、釜茶(PF)は勿論荒茶でも先ず水分検査で不合格になり値入れもありませんでした。
さて、静岡の市場が開設されますと同時に、県内産地の仲買いは静岡の荒茶委託問屋に出荷し、委託問屋が外商は勿論再製業者に売込み商談した形式は横浜時代と変わりませんでした。
当時静岡の委託問屋の主なる店をあげますと、茶町通りにサスカ石垣長右衛門商店(通称垣長さんといわれ、世話好きで偉大な人物で茶業の為に数々の功績を残した人で、その逸話は数々あります。)、水上委託部、カクニ
そしてこの仲買商が毎日静岡へ持ち込む荒茶見本を輸出商始め業者に製茶売込荷主代理人となって商談を進行させたのです。この新しい取引の方法は、従来の委託問屋から猛反対がありましたが、買い方をバックに、貿易と直接取引が出来ると歓迎されたこの取引方法を考えられたカク二鈴幸氏の功績は大きなものがあり、今日の幹旋業者の元祖といえます。
鈴幸氏は親分気質の人で、よく同業者の面倒を見、当時横浜、神戸の仲買店につとめた人が、茶の静岡にあこがれ来静し、昔の言葉でいうワラジを脱いだ人が多数おります。
イジュウ伊藤の先代及び後年静岡茶業界のうるさ方として知られた和波渉氏などがその内の一人です。
欧州戦争が始まりました大正五年頃になりますと荒茶製造機即ち精揉機、粗揉機などが改良され今迄水色が悪くて貿易に適しない地区の茶もよくなり、輸出の増加と共に静岡への茶の集散は毎年増加してきました。
一方鈴幸氏は伊勢(三重県) 四日市室山の当時日本茶を直輸出しておりました伊藤製茶部とコネクションをつくり、静岡県内の再製茶を一手に売込む契約をされたので、荷主代人の仕事を店員南城一六氏にゆずりました(この伊藤製茶部の輸出茶を一手にアメリカで販売したのが、BA商会をつくられた池田氏です)。
この南城氏が精力家でしかも榛原郡萩間の出身であった関係で牧之原及び小笠郡の南部と今の榛原町方面の仲買人と連絡を取り、当時外商で荒茶を一番多量に仕入れるヘリヤ商会と連携して、茶町通りを荒茶取引の中心地としたのです。
又水上委託部の茶方永野幸一郎、富士製茶の専属仲次であったカネ保半場の兄弟は金谷連合の看板で、掛川の榛葉貞作氏(今のマル福製茶社長の兄)、森製茶の居付き仲次であった青嶋松蔵、庵原出身の乾及び小長谷、マル八委託につとめていたハセ友、大浜氏などが荷主代理人として、各自店舗をかまえました。一方見付(今の磐田市)の市川米次郎氏が茶町に移転し店舗を持ち、浜松方面の生産家と連絡し、今迄荒茶や委託問屋一点張りでした浜松方面の茶の取引を荷主代人の手中にした努力は大きなものがありました。そして、亡父米次郎氏の片腕となり、荷主の応対、富士製茶への売込みはヤマ本市川といわれた程の商売熱心であった令息金吾氏は、今なお壮健で子息と第一線で活躍されております。仲次人組合も分離し荷主代理人組合を新しく組織して取引斡旋の先頭に立ち、静岡の荒茶取引は製茶売込荷主
(略称を代人組合と業者は呼びました)が店を利用する事が最も有効で、直接取引の商談が安心して出来るのが製造家一般に知られ、従って製造家が直接静岡へ売込みに来る基礎が確立されました。

出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。

