茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第1回
貿易茶物語 第1回
大石 鵜一郎 著
静岡が我が国の茶取引の中心市場である事は全国民の知る処です。
これは静岡県が全国一の茶産地であるばかりでなく、他府県で生産される茶も、値段は静岡市場の相場により左右され、又製茶も静岡に出荷されて貿易や内地需要に配合され販売されたからだといえます。
しからば、何故に静岡が全国一の茶市場となったかを考えますと、先ず第一にいえる事は、明治の中期、言葉をかえていえば日清戦争前後に、アメリカ、イギリスの茶商が日本で茶が生産されている事に目をつけ来日し、横浜で日本茶と中国茶を比較し、再製加工(着色)すれば米国民の嗜好に中国茶より適すると判断し、横浜の租借地(当時この土地を我が国では居留地と称した)に続々と工場を建設し、荒茶を仕入れて再製し(火入は手釜)外商自らが輸出したのに始まり、数量も年々増加の一途をたどりました。
明治三十八年、日露戦争が終結し日本政府も経済の向上が貿易の発展が急務であるとの認識を深めた事により静岡県も貿易港として清水港の設備に力を入れる事になりました。当時静岡には貿易茶商としては、富士製茶合資会社(現在の富士製茶の前身)が北番町に明治三十二年再製工場を建設した一社のみでしたが、明治三十七年当時の日本茶業界の第一人者でしかも茶の輸出に最大の関心をもっておられた、大谷嘉兵衛氏が静岡へ工場を建設され名称も日本製茶株式会社とされたことと、清水港が貿易港として認められ静岡茶が直接清水から米国への輸出が可能になったことが、静岡市が茶業の中心地となった最大の原因です。
さてこの書は、著者が大正三年茶業界に入り今日まで茶業一途にたどってきて、貿易内地両取引に携さわってきましたので、茶業界の移り変りを綴りました。しかも私の亡父が横浜時代に茶業のアメリカ三十六番館エブリル商会の工場長を務めておりましたのでよく話を聞きましたのと、著者も十四歳迄横浜で育ちましたから横浜居留地の外商の歴史も書き綴りました。取引に実際関係しておりましたので、統計からの茶の歴史の著書はありますが、取引の表裏から綴りましたのがこの書です。
輸出部長故吉川省三氏を始め、貿易に携った業者が、現在貿易の事について昔からの事を知っているのは筆者だけだから、将来の参考の為にも書けと言われましたので、あえて筆をとった次第です。
戦災により多くの書類をなくしましたので、年代に少々の相違があると思います。又、文中敬称を省略させていただきました事をあらかじめお詫びいたします。
徳川幕府が倒れ明治維新を迎えた我が国は、世界の日本としての第一歩を踏み出し、各国との通商関係も締結されましたので、アメリカ、イギリスを始め各国から日本の特産物に就いての照会が始まり、特に生糸、羽二重及び茶についての取引にはイギリス、アメリカが特に関心を呼び起こしました。
茶は明治初年からイギリス、アメリカの茶商が、神戸、長崎(当時横浜港は未完成でした)に来日し取引を開始したのがはじまりでしたが、当時は再製設備がないので数量は少量でした。
横浜港の設備が整ってきました明治二十年頃には横浜に生糸、羽二重の輸出を主体とする取引所が開設されたためと、首都東京に近い関係で貿易上の手続きその他総べてに便利なため、各国の船会社は日本における輸出入の起点を横浜に開設しました。
アメリカ、イギリスの茶商社は日本一の茶産地静岡県と一番近い事などから横浜の居留地(現在の山下町一帯)に工場を建設し、自己再製をして茶を輸出する事になり、神戸、長崎にありました商社も二十五年頃には横浜に集結されました。
この頃イギリスの商社が買付けたその茶は、イギリス本国へ輸出したのではなくアメリカ及びカナダへ発送したのです。これはアメリカが独立したばかりでしたので、イギリス人の経営する商社がアメリカ実業界に大きな勢力をもっていたことに原因します。
横浜居留地の外商(横浜では商館と呼称)は輸出茶が着色茶の関係から、広大な設備の再製加工工場を造り、明治二十五年頃からは本格的な荒茶の取引が多くなり、これに伴い横浜の本町北仲通り一帯に荒茶委託販売問屋が店舗をもち始めた。そして商館筋が荒茶の仕入れについては、アメリカ、イギリスにてはその商取引に専属ブローカーを使い商談をまとめさせている習慣からその方法をとる為には、ブローカーが必要ですから外商の代表が当時横浜における茶業界の第一人者、大谷嘉兵衛氏(この方の銅像が戦争中迄静岡の清水公園にありましたが、戦時中金属回収により除去されたが現在胸像として復元している)にはかりその人選を依頼したのです。
しかし当時茶のブローカーはおりませんでしたので考慮の結果、当時横浜の生糸市場は外人の出入りも激しく、立合いブローカーは迅速なる取引にもなれておりますので取引場と話合い、輸出茶のブローカーになる希望者を集め、この人達を外商に推挙したのが茶専属ブローカーの始まりで各自がつとめる商社と荒茶委託問屋との間を行き来し、商談をまとめたのです。
当時は自転車もないので、乗物には人力車が使われました。当時の横浜の居留地には外人が多いので、各辻々に辻待ち人力車がおりました。従って取引は商館と委託問屋との間で行われ直接取引は一切ありませんでした。
専属ブローカーの収入は、その取扱った数量により委託問屋から一定の口銭が支払われ、買手からの給料は貰いませんでした。この取引の制度は茶の市場が横浜から静岡へ移り、昭和二十年の終戦迄、商社での荒茶取引に関しては引継がれました。静岡の内地問屋の取引にもこの方法が採用され、取引にはブローカーが仲介する事が商取引を円滑迅速にできるので、その存在が今日でも形を変えておりますが、取引になくてはならぬ存在となっています。今の言葉でいう斡旋業者の始まりはこの横浜時代の輸出茶の初期から引続き受け継がれているのです。
当時生糸市場のブローカーから茶に転身された方の一人に今日、静岡市安西の内地問屋イジュウ伊藤商店の先代健次郎氏がおります。又荒茶委託問屋としては、大谷嘉兵衛氏の経営する大谷商会、岡野谷商店、明石屋(材木町伏見製茶の創立者)、遠州森の出身の黒川商店(後に津一商店)、藤枝市で再製業をされたサスナ笹野商店、マル三堀商店などが主なる委託問屋でした。
今書きました委託問屋津一商店に勤務された方で、元気はつらつたる方に葵町野桜氏の尊父松浦治平氏がおられます。
当時のこの問屋は、各店が倉庫と合場を持ち、堂々店舗で静岡を始め全国各地から送られてくる荒茶を、茶方が仮価格を定め荷主の指値と商館の買値との交渉をブローカーを介して商談をまとめ、取引きは全部現金払いでした。
新茶の前などには今年の横浜港出港の一番船は何日の予定で相場の予想は
駿河物 ○○円位
遠州物 ○○円位
浜松物 ○○円位
と書いて、委託問屋は宣伝に各地の仲買人宛にハガキで送りました。
なお、当時の貿易の荒茶取引値段は百斤(六〇㎏)が建値でした。
この委託問屋は、今日の横浜本町通りか北仲通りに集結しておりました。そして静岡県茶以外に京都、三重、四国、九州の茶も相当量入荷されていました。
当時は着色茶の関係から貿易向きの仕上げ茶の取引きはなく、外国商社は皆再製工場を持っておりましたので、荒茶取引きで荒茶を手釜にて再火し、その火入れ中に着色をし、竹製のトウシを使い加工して釜茶、篭茶(PAN FIRED BASKET・FIRED)として輸出されたのです。
従って、手釜がどの商社も三百以上ありましたから、女工さんを集めるのに苦労したのです。
この人達は、「お茶場の女工さん」と言われ横浜居留地の名物の一つでした。
明治三十五年富士製茶合資会社は、社長原崎源作氏と出資者の尾崎伊兵衛氏が北番町の自己の土地の提供をうけ現在の厚生病院とその前の厚生寮の一角全部に輸出茶再製工場と倉庫を建設し、工場には従来再製火入れに手釜を使用していたのを自己が発明した原崎式再製釜にかえ、仕上げも機械化し新しい茶再製の第一歩をきづき、その製品を横浜の同社の支店を通じ、アメリカ・サンフランシスコの同社の支店に輸出したのが静岡県輸出を静岡から出した始まりです。そして、尾崎伊兵衛氏は荒茶の委託問屋を尾崎国産社と称号して、安西三丁目(現在の鈴和商店の所)に開業し、荒茶生産者の製品を集荷し富士製茶に供給しました。
この二社の創立が、輸出茶の取引が横浜から静岡へ移動した一原因といえます。
富士製茶は、アメリカ・サンフランシスコに支店を設けアメリカに新販路を開拓されたのは、当時の日本が移民を多くサンフランシスコ、サクラメントへ移住させたのに、原崎氏は目を付けたのだと考えます。
又、原崎氏は再製茶の輸出と同時に社内の一角に、荒茶の製造機(所謂精揉機)を設置し生葉を集め手揉みから機械化の研究を松下氏と実際に試製して、今日の機械化の原動力をつくられた功績は、大なるものがあります。
ここで、原崎源作氏の人となりを話しますが、同氏は発明心が強く研究熱心の技術者でありました一方キリスト教の大信者で、富士製茶の一角に教会と日曜学校と子供の遊び場をつくり、遊具をそなえるなど当時の静岡人の考えられぬ設備をし、一般から喜ばれましたが、この施設は工場拡張の為、大正五年頃なくなりました。
また、社員の融和と娯楽そして団結力を強める為にとアメリカ・サンフランシスコの支店より野球器具一切を取りよせ、富士製茶野球部を設立し、近くの招魂社の境内で休み時間を利用し練習しました。
当時、静岡には静岡中学(現静岡高校)以外には野球部はなく、当時(明治四十三年頃) 著者は静中野球部の選手をしておりました関係で度々練習試合をした経験があります。
富士製茶野球部は大正に入り、当時慶応大学の名投手新田恭一氏をコーチに招くなどして技術の向上につとめました。
富士製茶野球部は、今日の社会人野球の先駆者であるといえます。
原崎氏はこの様に新しい頭の持主でしたが同業者との付き合いはきらい、独立独歩の精神で一生を茶業の機械化、発展につくされたのです。
この富士製茶の静岡設立は在横浜のアメリカ茶商社に大きな衝撃をあたえ、茶業をやるなら横浜より産地静岡の方がよいではないかという空気が出始めました。
明治三十八年頃、在横浜のアメリカ商社、ジャーデンマゼソン商社(通称英一)、ヘリヤ商社の二社が先ず第一に静岡移転を考え、北番町に土地を買入れたのと、初め誰しも考えなかった神戸の輸出業者が神戸製茶静岡工場と称して北番町に設立したのが第一歩で、つづいてバソト商会メーシー(通称アメ三)が続き、エブリル商会は社主死去のため支配人ブロー氏が跡を引き受け、その名称をホイヰットニー商会と改め、富士製茶の一室を借り、仕入れを始めたのが、茶市場が横浜から静岡に移った始めです。工場の設備はなくとも輸出向け再製茶工場が出来て思う様な製品が買い付けられる事がアメリカ市場に知られ、新しくアメリカ、カナダからブランデン商会、ホルジャー商会、シーグフリード商会、ゴットリーブ商会、ピーターソン商会が来静、また当時日本政界の大立者伊藤博文公のニューヨーク駐在員古谷竹三助氏が古谷商会を又、カナダの業界を知る西村氏が西村商会を開業し、日本郵船(KK) の社長近藤氏が清水港開港のねらいをこめ日本共同製茶を設立し、東洋製茶と北番町に新築中の大石製茶を買収し、北番町に本社を置き、部下である渥美氏を社長にし、貿易に期待をかけました。
一方、再製業者としては横浜茶市場の荒茶委託問屋の第一人者明石屋吉永氏が当時静岡市材木町の有力者伏見一家と提携し、材木町に伏見製茶を設立、安西三丁目には吉川覚次郎氏が大工場を設立、この二大再製を始め、静岡内地茶商の有力者水上、小山を主体にした駿静製茶、上田栄吉のカネ久再製(後の静岡製茶)、駿遠製茶、静北製茶、成岡製茶、ヤマセ赤沢屋、浜佐商店、横浜から移転して来た岡野屋などが安西、北番町を中心に集まり大正二年迄に横浜名物居留地のお茶場は姿をけし、お茶の静岡は日本一の茶市場となり、静岡の経済界の中心は静岡北部にかわりました。

大正元年〜大正6年ごろ(1912〜1917年ごろ)の様子を描いた地図
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。