2026/10/22
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第10回
貿易茶物語 第10回
大石 鵜一郎 著
昭和二十年八月十五日天皇陛下の終戦の御言葉を聞き感無量、我が国は敗戦国として米軍の占領下に入る事になり被爆を受けた焼けあとに立って私は考えました。すべてが一から出直しだ。それをやる事が我々の義務であり、また、自分の生きてゆく道である。勿論茶業者もそれがすべてであると考え、まず焼け跡の整理からと始めておりました。米兵が除々に進駐してきた終戦から十日位たった時、私が焼け跡に立っていると駅の方から一人の平服の外人が徒歩できて、私を見ると「ハロー・ミスターオオイシサン」 と声をかけられたので見ると、ヘリヤ商会のジンマリン氏ではないか。来日するにはあまりにも早すぎるからその訳を聞きましたら、終戦が近ずいたのはアメリカでは判明しておりましたので、自分は国籍がスイスなのでヘリヤ商会の命により、香港で待機し、イギリス大使館の通訳を兼任して終戦と同時に日本に来て、今日は静岡へ状況視察に来たとの話でした。そして、ヘリヤ商会の店員であった誰かいないかと問いますので、ヘリヤの人は判明しないが、アーウィンハリソンのマネジャーであった長嶋氏が近所におられるからと言いますと、是非面会したい案内してくれとの事で同道面会し、旧知の中でしたので三人でヘリヤ商会の焼け跡を見、そして長嶋氏の家へかえり、商売上の話がある事を私は察しましたので、失礼しましたら、帰りにマリン氏が私の所により、イギリス大使館での再会を約束して帰られました。 戦火を免れた事を話すと非常に安心されました。
私は同氏の来静によりヘリヤ商会は日本茶に対し期待をかけている事と、再来日して日本茶の輸入を考えられている事を予感し、ヘリヤ商会は必ず静岡へ来て茶の買入れをすると思いました。そして私がヘリヤ氏の住宅はジンマリン氏が来静された数日後にアメリカ軍隊の静岡駐留部隊が進駐し、城内の旧連隊跡に本部を置きました。意外だったのは、その部隊の中に茶業者として終戦前静岡に店舗を持っておりましたハキム氏が将校(大尉の資格)で来静されました。しかもビジネスマンとして社交的であった同氏の軍服を着ての態度は一変し、傲慢で茶業の旧知の間をまわり多くの話題を残しました。しばらくしてその姿を消し、その翌年軍服をぬぎ、ビジネスマンとして来静し、旧店員であった浅原氏(現平和倉庫の社長)をつれて、静岡はまだ復興の手がついておりませんでしたので、榛原郡吉田のカネ万中村製茶部を訪ねましたが、中村円一郎氏は死去されており、その三男であった円三郎氏と話し合い、ハキム氏は対米輸出釜茶の店を開くからと中村氏に協力を要請しました。中村氏は藤枝の一言弥太郎氏、カネ三西野商店、笹野貫一、川崎町(現榛原町)のカネ吉大石商店、島田の再製業者とはかり、平和製茶 (KK) を北番町につくりました。BA商会の焼け跡の一部を借り、工場、倉庫を建設、戦前のBA商会の茶方(仕入主任)を名儀上の社長と仕入主任に兼任させ、専務には中村円三郎氏が就任し設立されたのが戦後の静岡貿易市場の第一歩でした。
しからば静岡の旧再製業者の動向はいかがであったかというと、第一人者であった伏見製茶を始め、駿静、静岡製茶、静北製茶などの各社は復興再建の意志は更になく、サス吉武田、マルは山本など個人再製も当主が死去され、それに加えて静岡茶業界の大御所吉川覚次郎氏も新円切替の二日前病気が悪化し死去され、対米輸出茶経験者は全部姿を消し全滅の形でした。対米輸出の前途をうれい立ちあがらせたのは、戦前の駿静製茶の専務故青野直次郎氏の子息銀次郎氏(終戦迄は東部茶専門の内地再製業者)と日本紅茶の専務柚原慶二氏と吉川省三氏でした。この三氏が主体となり、青野氏は北番町(現朝日茶業の所)に貿易工業会の名称で再製工場を建設し、日本紅茶も北番町に工場を、そして吉川氏は安西三丁目で再建を目ざしました。個人再製としては、サス吉武田、マル辻辻商店が再建を目ざしましたが、サスカ石垣商店、ヤマか伊藤(春吉)商店などは姿を消しました。
一方内地問屋筋で戦前その取引を牛耳っていましたヤマ上水上本店、ヤマ小小山商店、カネ小金子商店の三大商店を始め、ホシK河村商店、マルウ宇和商店などの姿はなく、石川四方蔵商店、成岡商店、赤沢屋望月商店などに復興の気配がありました。終戦前迄は荒茶を主体に取扱っていたカネ八鈴木亀吉氏が北番町に工場をつくり、内地問屋としてサスボシ小林市蔵商店と共に着々と営業を開始しました。また、古河(茨城県)のマル善・古橋兄弟が安西に進出、工場を建設し、丸善製茶としてお目見えした事は内地問屋に大きな衝撃をあたえました。
さて、静岡茶業の大黒柱である対米貿易の再製業者はいかがかとみますと輸出茶再製の大元締めである吉川合名主吉川覚次郎氏、釜茶専門の伏見製茶(伏見孝、吉永両氏)、駿静製茶の青野直次郎氏を始め静岡製茶、静北製茶、マルは山本など有力再製業者の復活はなく、サス吉武田安太郎商店(二代目)とマル辻辻安吉商店の唯二軒のみが再建を始めたのみで、戦前対米釜茶取引をした人は一人もいないという悲惨な状態でした。
この状態を苦慮し、アーウィン、ヘリヤ両商社の来静はある事と考えられ、静岡市貿易茶市場の再建に乗り出すために日本紅茶の柚原慶二専務と青野銀次郎氏と吉川省三氏の三氏と鈴和商店の輸出部主任の時田松蔵氏が加わり協議をかさねました。貿易市場再開については、まず再製工場の再建が第一であるとの結論と敗戦国日本がとるべき外貨獲得には貿易の再開という政府の方針に同調するには資金の必要があり、それを農林省を始め県の援助を得る事が静岡貿易市場再開の最大条件であるとしました。
青野氏は貿易再製工場を貿易工業会という名称で建設し、これには茨城のマル善・古橋商店も加わりました。吉川省三氏は第三通商を、ヤマ吉吉川合名は当主が若いので省三氏の弟嘉四郎氏を社長として再建しました。時田松蔵氏(鈴和商店)は不幸にも中途病魔にて死去されましたが鈴和商店の鈴木正一氏が再建に乗り出しました。日本紅茶の柚原専務は北番町に工場を建設し、貿易筋の再製業者の再建の大勢は整いましたが、大手伏見製茶の姿のない事は一抹の淋しさを感じました。
一方、グリ茶、紅茶の再製の大手ヤマ新本目、ヤマ一前源、カネモ朝比奈、マル文佐藤、サス二浜佐、サスニ若松商店なども再建を始めましたが、全体的に空襲の打撃が大きく困難の状態でした。その点を考えた柚原日紅専務が従来から農林省筋に知己が多かったのでまず農林省農業課の理解を得、又、時の県知事と吉川省三氏は二人で懇談し、特に柚原氏独特の話術を以ってある程度の補助を受けられる大勢をつくりました。
一方、紅茶、グリ茶の輸出の今後の成行きについては紅茶に関しては、日本紅茶(三菱)柚原専務と三井物産の茶業部長浅原氏の努力により輸出の目安がつき、グリ茶については大石太郎衛氏(戦前荒茶委託問屋マルイ大石屋の主人)をアフリカに派遣しましたが、当時モロッコはフランス領でありフランス政府のビザがなければ入国出来ませんでしたので、まずパリのフランス政府当局に交渉しましたところ、フランス政府はビザの交付を拒絶しましたのでパリでモロッコ向け輸出している業者と話をするだけにとどめ、やむを得ず帰国しましたが、その話合いの中に輸出可能の報告がもたされておりました。
そこでグリ紅茶を終戦迄再製した業者即ち内地再製の復活は是非共必要でしたので、斉藤県知事と再三にわたる交渉の結果、第一回分として一千万円の援助の公約を得ました。しかしそれには個人でなく組合を対象という条件がつけられました。
この条件は農林省関係でも必要なため、青野、柚原、吉川省三、時田氏に小林誠一郎氏が加わり協議し、静岡市茶業組合の再建をきめ、その第一回の総会を農業会の事務所の二階で開きました。
この総会で役員には
組合長 青野銀次郎氏
副組合長 小林誠一郎氏
副組合長 マル文佐藤其一氏
専務理事 鈴木 靖氏
で名称は静茶協組合と変わりました。
この総会には輸出業者、再製業者、内地再製、委託記問屋、売込商組合(今の斡旋業組合の前身)の当時の静岡に在住の店舗は大体出席されましたが、終戦前の内地問屋組合を牛耳っていたヤマ上水上房吉商店、ヤマ小小山、カネ小金子の三氏は不参で、出席されたのはサスボシ小林誠一郎氏、鈴和商店、マルモ森商店、イジュウ伊藤商店の数店にとどまりました。水上房吉商店の不参は何を考えておられたか今でも不思議に筆者は思います。
専務理事の鈴木靖氏は県の推薦で統制組合茶業(輸出部)におられた人で、輸出関係者は人となりを知っておりましたが、内地再製筋には知人がなく、売込商の連中が発起人の依頼を受け説明にいきましたが、同氏は対話が上手でしかも態度もやわらかく適任者でした。
また、柚原氏は日本紅茶(KK)と関係上相談役として組合に協力されました。
組合が結成出来た事を青野、小林、柚原、吉川と専務の鈴木靖氏とが斉藤知事に報告し、第一回の茶業復興資金一千万円の交付を得て、これをすでに工場再建にかかっていた内地貿易再製であるヤマ新本目、カネモ朝比奈、ヤマ一前源、マル文佐藤等に再建補助金として分配しました。
これにより静岡茶業界は一つのまとまりが出来ましたのと同時に、業者復活の気運は高まり水上房吉商店も三代目がきまり(現組合長)、組合に加入したのを始めとし、他の内地問屋の連中も是につづき、それに加えて永年の荒茶取引と得意先を獲得された努力の結晶の模範ともいえるカネ八鈴木亀吉商店、成岡商店主の成岡浩次郎氏の加盟などにより組合は組合員の数も増加し、北番町に組合事務所を新築し、静岡市茶業の元締めは確立されました。
ここ迄をつくり上げた青野、柚原、吉川省三氏と同調して努力された小林誠一郎氏、鈴和商店の努力は今の時代の若き方にはいいしれぬものがあります。
一方アメリカの日本茶輸入業者の動向は終戦と同時に、戦前来静した商社の内アーウイン、ヘリヤ商会は特に関心を持ち、昭和二十四年にその輸入社を代表して、ヘリヤ商会社長(戦前に来静された長兄は終戦間近に病死されたので、その弟さんのフィリップヘリヤ氏が社長となった)が始めて来日され、業者の代表と話合いの結果、各種釜茶、アイノの見本をまとめて持参されて帰米されました。
しかし、その見本を造りますのに、工場は静岡になくしかも統制時代でしたから各地の農協茶業部から荒茶をとりよせ、その茶を藤枝、島田の郡部再製業者に製造させました。日本茶業(KK)の柴田社長が若い頃から、古谷西村商会、つづいてBA商会につとめられて、釜茶、ァイノのアメリカ向け茶の形状、合組(ブレンド)などに精通されておられたので、先方に十分満足する見本をつくる事が出来たのです。
ここで付言にはなりますが、ヘリヤ、アーウイン両商会とも工場は全部焼失しましたが、両社の住宅は幸いにも空襲の被害をまぬがれました。
その翌年ヘリヤ商会主が買い付けに、つづいてアーウィン商会はマッケンジー夫妻が来静されましたので、対米輸出はあかるい見通しとなりました。
しかし、ヘリヤ商会は戦前は荒茶を専門に買付け、自工場で再製しておりましたが工場焼失のため、仕上茶を買う以外ないのでいささか感じが異なりました。
アーウィン商会のマッケンジー氏は静岡へ到着の時出迎えた業者の中に同社が始めて静岡に店を持たれた時以来同氏の買付けの相談役(店員)であった青木茂三郎氏を始め、売込みに毎日会社を訪れていた所謂常人の伏見製茶の吉永氏、カネ万中村来吉氏、武田安太郎氏、焼津のマル合服部氏など親しくしていた古知人の姿は一人もいませんでした。又、マ氏自身も歳をとられやつれておられ元気のないのを著者は感じました。
そして駅に出迎えた青野組合長(未知)と挨拶を交され、著者の姿を見てすぐそばに来られ握手をし、二・三日間の内に会うと約束された事は今だに深い思い出です。
そして来静の翌々日、電話で長嶋支配人からマッケンジー氏が会いたいから自宅へ来るようにとの事、早速私が訪ねましたら長嶋氏が立合われ旧知の再製業者の動向と現状を質問されましたので、吉川合名吉川覚次郎氏、カネ万の中村来吉氏、武田安太郎氏、マル合の服部氏と社員青木茂二郎氏の死去と伏見製茶が再建の意志がない事と静北、静茶も伏見製茶と同じで姿を消す事などを主体として話ました。マッケンジー氏は、伏見製茶の廃業に殊のほか落胆されました。その原因は釜茶の上級、中級の性吉品は伏見製茶を主体に仕入れられていたからといえます。
なお、マ氏がゼンソクの為非常にやつれておられるのを私は感じ心配になりました。
そしてアーウィン、ヘリヤ両社共工場がない為、荒茶を仕入れての再製の出来ない事を残念がられていました。特にヘリヤ商会は横浜時代から静岡に移転しても荒茶を自己の工場で再製し、再製茶は特殊茶を仕入れる以外は全部荒茶を買付けられた関係上県下の再製業者とは付合いが少なくその点を非常に懸念されました。
両社が終戦後再来静された時の事はこの辺で筆をおきます。
次に終戦後一番さきに業者と対談し、日本茶業(KK)
までつくらせ、話題の多かったハキム氏は、アーウイン、ヘリヤ両社が再来静する事を知ると日本緑茶の対米取引は自己では望み少なしと感じ日本茶の取引をあきらめ、帰米後も音信もなく、従ってその関係者を唖然とさせました。ハキム氏はユダヤ族であり、ユダヤ人の商取引は見込みがないと思えば、すぐさま一変して関係者の迷惑などは更に考慮に入れないのが特徴です。
さて、ヘリヤ・アーウィン両商社は先年ヘリヤ商会主が持ち帰った見本を標準にその内の数種を輸出組合に注文しましたので、輸出組合は茶が統制下にありましたので、産地農協茶業部にそれに適する荒茶を注文し、その荒茶を再製業者に配分させました。しかし、静岡市業者は工場の建設が未完成でしたので、その大半は経験のある島田(振山X 藤枝の業者が加工再製し、各農協がこれを集荷し、輸出組合に送荷しました。そしてこの釜茶を前に述べました日本茶業(KK)の柴田氏が主となり配合し、両社に提供しましたが、製品の中には不適当な茶もありこれは日本茶業(KK)にて再加工して間に合わせました。
日本人輸出商社としては、静岡茶直輸(KK)が再建し、またBA商会の池田社長は静岡で戦災をまぬがれた羽鳥の工場を拡張し、事務所は戦前の北番町の所に倉庫もふくめ、池田氏独特の商法をもとに再出発しました。
値段の交渉には幾多の問題がありました。その一例としては、日本の量目の計算が貫からkgに変わりました事や、すべての物価の高騰もあり、特に農産物は戦前に比較して、非常に値上りしておりました事などにより値段の交渉に影響がでました。
しかし、互いのゆずり合いにより第一回の商談は成立しましたが、その数量は戦前に比較して大きく減少しました。
ヘリヤ商会は事務所を直輸の三階に、アーウインは県生産連の三階に事務所を借りましたが、両社共工場再建の意思はみられませんでした。対米輸出が期待した数量にはなりませんでしたが、再開された事は業界の喜ぶべき現象でした。
そこでこの輸出茶再製によって出ました約二割の出物(棒、頭、フワ、粉)の回収についての仕事は、輸出組合の青野、柚原、吉川省三氏等幹部が協議の結果、その集荷を売込商組合(現斡旋組合の前名)の在静者の筆者
を始め横山勝蔵、藤波、大塚氏などと委託問屋マル八も加わり各地の農協に集荷してありました出物を取引交渉にあたりました。
しかし、小笠郡、磐田郡の農協はその集荷をこぱみ、仲々苦労をしました。
そして、輸出組合に集荷された出物は、大阪、東京、神奈川の各府県組合の代表者、組合長及び幹部が総出で来静され、競争的に運動されましたので、輸出組合もその割合に苦心した事は今の時代では考えられぬ事です。
この出物集荷に売込商の在静者が協力した事は、関係者に感謝されましたので、これを機会に売込商組合を復活する気運が高まり、青野銀次郎氏などから売込商の名称を茶斡旋業組合とする方がよいのではないかといわれ、斡旋組合と名称を変えて各自が戦前の如く活躍することになりました。
昭和二十二年統制が解除され、昔にもどり自由取引となりましたが、静岡茶市場の取引には戦前と比較して大きな変化がありました。
その第一はアーウィン商会の石蔵建ての三階の工場もなく又、ヘリヤ商会の一町四方有余の工場もなく、伏見製茶は姿を見せず、富士製茶、吉川合名は、吉川合名は規模を縮小し、連合会議所も焼失して姿はなく、貿易茶の中心地は敗戦のかなしさを業者の頭に深くしみこませました。
この状態の北番町にアーウィン商会は県生産連の事務所の三階に事務所を設け、又ヘリヤ商会は復旧した静岡茶直輸出(KK)の二階に事務所をつくり、釜茶の仕入れを開始しました。
これより先、統制中に日本紅茶(KK)は丸子から会社を北番町に移し、工場も建設し、また青野銀次郎氏は貿易工業会(KK)を設立し、これには内地再製の有志及び古河のマル善古橋製茶(古河の有力内地問屋)の社長も加わり貿易再製の設備を完備しました。BA商会の池田謙三氏は旧位置に事務所工場を建設し、その所有地の一部を日本茶業(KK ・新設)に貸し、柴田氏が社長
となり郡部の釜茶及び荒茶再製の設備も完成したので、統制がなくなりましたと同時に、日本紅茶と共に営業を開始しました。
この様な状態でともかく北番町が日本茶貿易の中心として再び復興する事になりました。内地問屋関係では戦前、静岡県下の内地向け茶の相場を左右したトップの三店のうち、ヤマ小小山、カネ小金子の両商店鮭仮伸せず、ヤマ上水上商店は当主が若き三代目(芳郎氏・現静岡茶商工業組合理事長)と変わりましたが、身内で若き主人の盛り立て役であり再建に協力すべき島村藤兵衛氏が板山氏と共に去り独立し、また店員の加納茂二郎氏が辞任し、店の目の前に独立店舗をかまえるなどの苦難を独立、独歩の努力の結果と売買双方の得意先からの声援もあり、復興された事はよくやられたという一言につきると思います。
また、ホシK河村商店、マルウ宇和商会も廃業同様の時、新規問屋として大きくあらわれたのが、カネ八鈴木亀吉商店で北番町に店舗工場をいち早く建設されました。鈴木亀吉氏の父は愛知県の出身で、静岡市安西に開店され、若き亀吉氏と共に茶業界入りしてあらゆる苦難を乗り切り、荒茶取引から始まり、内地取引の地盤をつくられたいわゆる苦労人で、統制解除と共に茶業者だれもが考えていなかった新販路(その取引先は営業に関係しますので明記をさけます)を開拓されて、工場を建設された事は業界に新風を吹き入れたといえます。
また現成岡甚三商店次男成岡浩次郎氏は永年の経験を生かし独立され、主和商会を茶町に建設し、業界に新風を入れた事も静岡の業界に大きなプラスとなりました。その他にマル十長野商店、マルヒ産業などが従来の問屋の中に加わりました他に古河の卸問屋のマル善製茶が安西に新しく店舗をつくり荒茶から再製の設備をつくりました事は在来の問屋の一つの驚異です。
次に内地再製はいかがかというと在来の大手ヤマ新本日、ヤマー酬源、浜佐、マルモ森、カネモ朝比奈、サスニ若杉商店を始め変化はなく、ただ新しく杉本商店が錦町に店舗をつくりました。
次に委託問屋(荒茶)は水上委託部、大石屋、マル八国産などは皆姿を見せず、ただ一軒サス中牧野商店のみとなりました。
次に私の所属します売込商組合は統制により農協関係の仕事をしておりましたが、マルカ杉山、カネト野中なども復帰しましたので、八千代町の横山氏、マルカ杉山とマルニ大石が相談し、前に述べました統制時代に輸出茶出物集荷にたずさわりました関係も考慮し、名称を静岡製茶斡旋組合と変更しマルカ杉山金治氏を組合長としました。
また、県斡旋組合を設立する事を決め、カネ源杉山友作氏を組合長といたしました。
そして組合員の承諾を得て、 一致協力し茶業復興に努力する事を誓いました。
市川金吾、半場(兼)氏も復帰し新しくマル八国産の望月、小川、斉藤美智雄氏の東部連合、大島国造氏などの新加入もあり、戦前よりも組合員が増加し、各自に店舗も持ち、静岡に各産地からの荒茶の集荷につとめましたが、各産地にも変化があり戦前に比較し集荷には多くの困難がありました。
最後に小売商組合の動静はいかがかというと、これは竹茗堂がトツプに立ち他店との開きが大きく一人舞台といっても差支えない状態でした。
さて静岡市内の状況はこの辺で一時おき、目を郡部に移しますと、全体的には戦時中の空襲の災害も受けず、一部の大工場が軍部にその建物を押収された以外に変化はなく、ただ伝統があり茶業界の大御所であったカネ万中村円一郎商店が円一郎氏の死去により茶業部を廃止された事は業界に大きな淋しさを感じさせました。
しかし、藤枝方面はヤマ一本店、カネ三西野、マル冨一言などの釜茶の製造の設備のある商社も設備に被害はなく、島田市のヤマ二、マル三(振山)、掛川のサスナ笹野、袋井の大矢再製なども釜茶の製造には支障がなく静岡の釜茶工場の全滅を機会に静岡から郡部に移った事は大きな変化といえます。
内地問屋筋も前記の郡部商社に加え、藤枝の藤栄、島田の原田などの新顔の活躍は目を見はるものがあり、中でも原田は静岡の斡旋業者の店にまで出張し、荒茶の仕入れを毎日した事は業者に大きく反映しました。また、掛川には在来の老舗カネモ角替を始め皆健全であるのに加え、中内田村(現菊川町)の旧マル共揉切製茶の跡の
カネ上佐々木商店の進出は目ざましいものがありました。
このカネ上佐々木製茶は戦前は荒茶製造のみでその生産も日に十本程度のいわゆる精揉機屋さんで私の店でその製品の販売斡旋をしました。性合いと形状のよい茶で内地筋問屋に一番ばれた製茶でした。
このカネ上佐々木が内地問屋となリマル共揉切製茶の関東における地盤をつがれ、たちまち掛川茶業の第一になられた事は実に立派で中内田の性吉の茶をいかした努力の結果と私は敬服しております。
また県下各郡部に根をおろしている農協は戦前の産業信用組合の跡を受け、県下で発展していた小笠郡の各組合(カネ共、土方、大坂、川野、笠原、愛野、法多)の性吉茶の貿易筋で特に歓迎した茶を静岡に荒茶で出荷し、この方面の茶をヘリヤ商会が好んでおり、大体全部の六割は同社で買入れたのが終戦後は自組合の工場で再製し、組合関係に製品を出荷し、荒茶で静岡の市場に姿をあらわさぬ様になりました事は、貿易に大きく影響しました。
対米釜茶(バスケを含む)の取引は戦前は静岡とその地の郡部(藤枝市、島田市、掛川市を含む)の取引高の比較は大体七対三ぐらいの割合いでしたが戦後の割合いは静岡の空襲被害のため二対八と反対になりました。
しからばなにゆえに小笠、牧之原の茶が貿易市場の静岡に入荷されなかったかというと、産額が戦前に比較して少なかった事と他元内地問屋筋の仕入れが静岡の業者が災火により全焼し、取扱い高の減少の余波が郡部にうつった関係から、関東、東北また特に上茶の需要地東京都の問屋筋が産地へ直接仕入れに出張するなどの関係から貿易向きに出荷する余地がなく、また小笠、榛原の農協が貿易に荒茶の出荷をする意志が全然なかった事が大なる原因です。
また牧之原大井飛行場跡は米軍が農地開放により小作人に払下げられ茶園として復活する様になり、茶業者には喜ぶべき事ですが、ここでも農協が榛原北製茶工場を設立、荒茶製造再製設備までつくり肥料、食料及び土地買入れの資金の供給をした関係で生葉の大部分は農協により集荷されました。その影響を一番に受けたのが島田の精揉機屋で戦前四軒ありましたマルカ、マル仲、マル共は廃業しました。この四工場で戦前は茶期中に毎日約三百本(四十㎏入) 程度の荒茶を静岡へ出荷しておりましたがそれがされなくなった事も静岡市場のさびれる原因の一つでした。
この四軒の精揉機屋の内マルカ萩原は遠州一の工場で、毎日百三十本五千三百聴の荒茶を製造しておりました。
以上が統制解除当時の県下茶業界の状況です。
昭和二十五年、ヘリヤ、アーウィン両商社が来静され、自由取引の第一歩を踏出しましたが、釜茶は静岡ではまだ工場が未完成ですので釜茶の大半は郡部の再製業者に独占されたと言えます。
グリ茶もモロッコ、アルゼリア方面に多少輸出が始まり、これは静岡の業者により輸出され、紅茶は日本紅茶が相良町萩間及び榛原町の鹿島などに特定発注して製造させるなどして貿易方面は一応昔時のおもかげをみせ始めました。
しかし、戦前と異なり牧之原以西、特に小笠茶の静岡への出荷が少なく斡旋業者も苦慮して努力をしましたが、農協の力がつよく小笠郡では農協自体(各町村)が内地販売を始めましたので静岡への出荷は少量となりました。そのためアメリカ向け釜茶の性合いが思う様に出来ず、その点静岡のみならず郡部再製業者を苦労させました。
対米輸出が再開されて一年もまず以って、ヘリヤ、アーウイン両社の努力により輸出出来ました事は、前途に業界に明るさを増しましたが取引高は期待した数量に達しなかった事は残念でした。
これには戦前に比較して品質が低下した事は一つの原因と思います。その証拠にはその翌年、新茶の盛期にアーウインとマッケンジー氏が私の店に電話で荒茶の見本を数種持ってくる様にとの事ゆえ、直ちに持参し直接話しましたところ、河城のマル大大石製茶の荒茶を五十本(約二千贈)を買入れ委託再製させた事は小笠、牧之原の茶が少なかった事によるものでした。ただこの委託加工する工場がなくつづけて荒茶の仕入れが出来ず、マ氏もその点非常に残念がりました。またヘリヤ商会主も私の店を訪問され、荒茶取引の状況を見学された事も異例の事でした。
* * *
茶の輸出が静岡に移りまして約八十余年の歳月は流れ、世のうつりかわりには戦争、そして敗戦は別として大きなものがあります。
一例を言うならば静岡の貿易茶が開始されてから現在も茶業に専念されている方は、輸出で富士製茶株式会社と再製業者でヤマ吉吉川合名会社とヤマニ成岡謹三商店(昭和になり内地向へ転向)の三社のみと言う事は淋しいきわみです。そして、私の記憶に静岡の茶が今日迄発展して業者として特に残っております方は、大谷嘉兵衛氏(日本製茶株式会社初代社長)、駿静製茶を設立した先先代水上房吉氏、伏見製茶、吉川合名社長覚次郎氏、外商でゴットリープ氏、マッケンジ,―氏、ヘリヤ商A「古谷竹之助氏、
そして茶業青年団を創設した小山金作氏、日本紅茶の柚原氏、富士製茶の創立者原崎源作氏だどで、これらの方々は静岡茶に心血を注がれましたが今は皆様すでになく、ここに改めて御冥福を祈ります。
平成二年八月
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。