茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第8回
貿易茶物語 第8回
大石 鵜一郎 著
これが茶業者が他の業界と結び、茶業の販路を新しくひらいた第一歩と考えます。
これと同時頃に関西では森永製菓が宇治上泊の業者と提携して、ほうじ茶を名称「宇治かおる」として売出し、東京方面では相当の需要を喚起しました事は、ほうじ茶の今日の売行きをみる元祖といえます。
昭和十一年新茶になりました時、前年迄各地の信用購買販売組合の扱っておりました茶(所謂市場での呼び名社の茶)を新しく組織替えして、県購連の略称で新茶から各支部で集荷し、これを本部に集め、内地販売を企画し、それを実行しましたので、静岡を始め県下の内地茶商に大きな衝撃を与えたばかりでなく、今迄社の茶を多く仕入れていました外商ヘリヤ商会などに迄打撃を与えました。
この新茶を集荷して、内地の各都市の有力小売商に販売を企図した事は、その宣言に生産家の製造した茶を中間問屋の手を省き、直接需要者に送るという事で、つまり「中間業者の搾取をのぞくため」と迄言葉にあらわした事が、内地茶業者の立腹する所となり、静岡市の茶業者は将来の死活問題として、内地問屋組合がヤマ上水上、ヤマ小小山、カネ小金子商店を始め若手の小林誠一郎氏、成岡謹三氏など有力茶商メンバーが一斉に奮起し、藤枝、島田、掛川を始め県下茶商もこれに行動を共にして打倒県購連、守れ茶業の生命線を旗印にして、静岡市公会堂を借り茶業者五千人を動員して大会を開き、対県購連との闘争を開始し、問屋筋は全国の茶商の協力を依頼し、同意を得、売込商組合は(その前年に代人組合はその名称を静岡茶売込商組合と改名しておりました)、各荒茶生産地に行き、大小を問わず、各自が自分の名義で静岡を始め各地に出荷する事により、品質の向上も出来ると宣伝に全力を傾注しましたので、一番茶の精揉機屋の出荷は増加したのです。
争議は、日に日に激烈となり、静岡に於ては茶業青年団長小山金作氏、副団長河村鐘三氏を始め全員が陣頭に立ちあらゆる戦術を考え、当時静岡駅前にありました、お茶の静岡の大鉄塔に「打倒県購連」「守れ茶業の生命線」の大タレマクをつくり、全市民の関心を呼び起こさせ、市内にビラをはり、戦意をもりたてました。
一方県購連の専務岩間芳雄氏は信念の強い所謂頑固な人物で、私の静中時代の三年先輩でしかも野球部のキャプテンでスパルタ式練習で随分泣かされた人物でした。さて本筋にもどり、この青年団の幹部に藤枝の一言弥太郎氏、掛川のカネモ角替氏の加わった業者の代表と、岩間専務と猛者の石川氏等との対立で争議は解決の糸口もつかめず、一方、一番茶の生産は増加してきましたので、全国茶商もその成行きを心配し始めました。
しかし、県の当局者もその成行きを傍観するばかりで、仲裁に入らず、清水食糧の清水俊二氏が仲裁に入りましたが、県購連が主張を曲げず物別れとなりました。ただ、県購連は再製工場を持たず、売先きのなきまま集荷はつづけました為、各地の県購連の支所のみでは置き場所に困り、BA商会の池田謙三氏が静岡県人でなく、かつ、変わった思想の持ち主であり、工場も英一番の跡でしたので、規模が大きいのに目をつけ今の言葉でいうとこれに目をつけ買収し、集荷した荒茶を毎日十万キロ位づつ委託したのです。
この県購連と池田氏の行動に対し業者は一層争議を強め、業者はBA池田氏と一切取引をせずその行動を見張ると共に、BA商会に出入してその荒茶取引に関係した二、三名(特に姓名を秘す)を売込商組合は除名を公表して一切の交際を絶ちました。
ヘリヤ商会始め他の外商及び輸出再製も県購連の茶は一切取引せず、県購連とBA商会は孤立し茶業者の団結の強さを示し、貿易筋を始め一般の取引には支障は案外少なかったのですが、茶商側は県購連が将来内地貿易両面への進出が懸念されましたので断固闘争をつづけました。
しかし、茶市場の空気にはおもくるしいものがありましたのと、茶期でしたので昼間は業者は仕入、売込み、夜は戦いの相談が毎日つづき、一方県購連は、BA商会だけでは荷物の貯蔵には限度があり、しかも今日の様に冷蔵庫の設備がない為、荒茶の火入れにおわれ、自己の輸出茶の製造にも事欠く状態と迄争議は発展したのです。争議が永びく様相は必ずしも茶業にプラスとなる事にならずと考えられたのは、県下輸出再製界の大立物吉川覚次郎氏でありました。氏が双方の主張を聞きただし、仲裁に乗り出したのは争議が始まって約半ヵ月後でした。まず、同氏は、第一に県購連が業者を甘く考えている点を指摘し、集荷した荒茶は売込商組合員を介し、業者に売込み、自己製品は組合支所に流し、支所以外には売込みをせぬ事、輸出も輸出業者を介し行い、荒茶の売買は売込商を通し行うという条件を承知するなら仲裁の労を取ると話し、県購連はこの条件に納得しませんでしたが茶業者が永年の努力の結集により今回の市場が形成された事と、茶業の歴史と大義を話し、この条件を承知させて茶業者側に伝えました。
業界の代表であった小山団長、ヤマ上の杉山氏など幹部は、県購連の将来に関し、禍根を残す事を考慮しながらも業者への進出をはばみました事により、吉川御大の偉大なる力量を信じ各関係筋の了承を得て、解決を吉川御大に一任し、両者を呼び、吉川氏に清水俊二氏がつきそい立合の上、手打ちして解決したのです。
私はこの争議がなぜ起きたかを考えますと、まず第一にあげたい事は県購連が茶業界の取引の現況を認識していなかった事が事態を悪化させたと考えます。しからばなぜ認識不足かというと、貿易筋は明治四十年の清水開港と同時に外商を静岡に移転させ、輸出向け再製茶の加工技術を研究し外商が工場を設置しなくても、その注文茶を製造する迄の努力をした事と、内地筋は国民全体がお茶は宇治茶と言われたのを所謂内地の需要者が満足する茶の生産に内地問屋と精揉機屋が、売込を介し取引しておりました関係から、色沢、香味に各産地の茶の持つ特色を生かし製造させた事が静岡茶が国内全般に知られる様になりました。内地問屋を始め売込商などの業績を考えずしかも一言の挨拶もなく、県購連を支えるバックの力を過大して、安易に売買が出来ると過信した事がこの争議を大きくした原因であるといい得るのです。
吉川御大の伸裁により、円満解決により茶業者の団結力は一層強くなり、茶業一筋の発展に努力する事になり、一方、県購連により茶業が一歩ふみ出した事はいがめない事実です。ただこの争議にBA商会は一人独自の立場をとり、業
者から取引以外は茶業者全般からはなれました。売込商を除名された人達も、組合の意志に反した行動をした事を深く陳謝して復帰し、今後の協力を約束し、全部の争議を終わりました。吉川御大は、解決するとその日に私を呼び、事件は解決したが、果して業者が県購連と進んで取引するものはないと思うから、その先鞭をつくる事が和議ができた以上必要と考えるから、私に県購連へ今から出向き、在荷を買付けてこいといわれ約一万貫の在荷を買付けて来た事は今も思い出の一つです。
紅茶を日本人が口にする様になったのは、明治の初年といえます。
明治維新で我が国は世界の各国と貿易を始めましたので、西洋文化特にイギリス、アメリカ、フランスとの交流は激しくなり、官庁の机もテーブルと変わり、服装も洋服を着する人々の増加が年々多くなった時代です。ですから、見る物、身につける物、食べる物迄が新しくうっり変わるのは当然です。
そこで、世界の海の運輸を4耳っておつたのがイギリスです。そこで、食料品でまず輸入されたのが洋食(当時は西洋料理と呼び、この言葉は今日の言葉でよくつかわれる社交族又は新しい形のものを身につけた人をハイカラさんと呼んだのと同じでこの二つの言葉は大正の中ば迄使われました)が、外商などから招待されると御馳走になったのが始まりで、料理がイギリス風でしたから
食事の後で必ず紅茶が出るのが通例でした。これが日本人が紅茶を口にした始まりです。新しい物を好む、我が
国民の内の上流層、又、ハイカラ連中によって飲まれ、好まれる事に注目したのが、イギリスのリプトン紅茶です。このリプトンが、宣伝につとめ日本に今迄なかった飲料品として、一般に販売される様になったのです。
紅茶を買う人は、リプトンを今でも最高品であると思っている人もある程、イギリス人特有の宣伝上手の商売のやり方と感心します。
従って、日本人の紅茶はコーヒーより早い時代に口にした事がわかります。
明治十五年頃、外商が緑茶が出来る日本で紅茶が出来ない事はないといい、その生産をすすめられたので、当時の茶業界の第一人者大谷嘉兵衛氏を始め、業界の先覚者が試験的に一番茶で造りました。天候と温度、萎凋により、紅茶は始めて価値ある品が
出来る事を念頭に置かなかった事と、当初は台湾が支那の領土でしたのでその研究にも行けず、その製造は失敗に終わりました。
一方、我が国の国内状勢は、大正から昭和の始め迄、軍備拡張と輸入超過が進み、経済は年々赤字累積の財政となりました。その建て直しの為に、輸入増加を防止し、諸物資の国産奨励が進みました。紅茶もリプトンの輸入品のみでしたので、紅茶の国内生産が考えられ大正十年頃から紅茶研究所も設立され研究が始まりました。
又、昭和の初期浜口内閣の時は、不景気の時代でしたので国内産業の発達の為に、国産品を奨励し、その一例として江木翼鉄道大臣は、国鉄が使用していた時計を一切国内産精工舎の製品と変えさせて話題となりました。
この様な事が、国民が国産品を愛用し、さらに改善発展に拍車をかけたと考えられます。
紅茶も年々需要が、増加してきましたので、国産が業者の間で関心を持ち、特に大手商社三井物産、三菱は国産奨励を機会に三井は鹿児島の知覧と台湾の魚池に、三菱はその傍系の中村円一郎氏と三橋四郎次氏とはかり台湾の魚池にセイロンよリアツサム種を取りよせ、茶園の開墾を始め、昭和八年に日本紅茶株式会社も丸子に工場を建設、内地の販売を三井物産と共に開始したのです。
そして、当時は台湾が我が国の領土でしたので、台湾紅茶を内地に移入し、静岡県産の紅茶とブレンドしての輸出も考えられ、三井、三菱がその販路の拡張、特に世界紅茶市場のイギリスロンドンのオークションにも上場されたのを始め、各国に昭和十年頃から輸出しその量も上昇に向いました。
一方、県内の精揉機屋も日紅と三井が紅茶に適する茶樹の多い静岡の丸子、榛原郡の萩間、志太郡の一部の精揉機屋に製造を勧誘し、製品の買上げを保証して奨励し、又、静岡県以外では日紅、三井が地区と協定し、全国的に生産を奨励した効果があがり、紅茶に対する精揉機屋の関心が高まったのも昭和十年頃からでした。
そして昭和十一年からヘリヤ、アーウィンの二外商も紅茶の荒茶の買入れを開始した事は生産者に製造の拍車をかけたといえます。
ここで今日、話をしたらなんだ頭が古いなと一笑に付する事ですが、紅茶の需要を内地で増加させると、緑茶の内地需要が減少するという考えを持ったのが、当時の内地問屋の有力者、ヤマ小小山、ヤマ上水上、カネ小金子とこれに和波渉氏を加えて、代入組合に紅茶の取扱いはしない様にと申込みがありました。代入組合は臨時総会を開き、組合員個々の意見をまず第一に聞く事にしましたので、組合員の内、三岡氏はすでに日紅と取引をしており、私もアーウィン、日紅と吉川合名と取引してい
ましたので、この申出を受入れる事は絶対できない。もしこの事により内地問屋と代人組合との関係が悪くなる事態になるなら不本意ながら代入組合を脱退させてもらっても仕方がありませんとの意見を両名で申し出ましたので、総会はこの意見を書きつらねて、内地有力者に回答しました。その結果やむを得ずとの答えが出てこの問題はなしとなりました。
この問題の起源を考えますと三井、三菱などの茶業界以外の筋が、将来茶の内地販売に進出してくる事を防ぐ一つの手段として当時の業界のかくれたる智者として自任していた和波渉氏の発案であったと思います。
話は横道に入りましたが、紅茶の荒茶が出廻って来ましたが、前記四社以外の再製業者は、その再製方法を知りませんでした。
静岡茶業界の大御所ヤマ吉吉川覚次郎氏は、紅茶の将来性を拠出しその再製法に就いて、自ら荒茶見本を持参し、日本紅茶(KK)(当時の日本紅茶は中村円一郎氏が社長、三橋四郎次氏が専務で柚原氏が支配人・昭和十年)の柚原支配人にその選別再製方法の教えを受けた事は、吉川御大ならねば出来ぬ事で、自分の地位を考慮に入れずあえて、教えられたところに大きな存在があります。又、日紅柚原支配人は紅茶の再製品の仕入れを必要としたので、当時の内地再製が二番茶からは閑散期となるのを考え、内地再製筋の大手ャマ新本日、ヤマ一前源、カネカ米兼に紅茶の製法を教示、製品の受け入れを引受けました。
内地再製業者が二番茶から紅茶とグリ茶の再製をすることになった一つの原因です。
詳しく言うと紅茶の製品はOP ・BOP ・BPの三種類に別けて再製し、この三種類の分類料により値段が出るので、つまり上紅茶の荒茶で造った製品程BOPの分類料が多く従って値段も高く評価されるのです。
この再製法を静岡の再製業者が会得した事により、静岡市が日本の紅茶の市場として、世界の紅茶界に知られた原因です。
一方内地の紅茶の需要は昭和八年頃から大きく伸び、特に関西のコーヒー業者が皆内地産紅茶の取扱いを開始しました。特に大阪のコーヒー業界の一位でしたオリエンタルコーヒー(KK)の社長出石宗三助氏を始め、神戸の上島(現在の上島コーヒー社長)、大阪の協栄製茶(現存)社長など関西の食料品業界が紅茶の販売に努力され、出石氏などは毎月来静され、十万封度位を買付けられました。
又、ハキム商会及び栗田商会なども新しく紅茶の輸出に新販路をつくり買付けを始められた事も、紅茶の生産に拍車をかけたといえます。一方生産面においても、BOPの多く取れる荒茶は高値で取引される関係上、二番茶の早摘みを買手筋も歓迎しましたので、精揉機屋も緑茶以上に品質により値段の差異があるので、荒茶製造に関して技術の向上に努めた事は、本県茶業に大きな収穫でした。
しかしながら残念な事が一つありました。それは、本県産が鹿児島産と比較して劣っていた事です。これは気温の関係がありますが、鹿児島県が紅茶を特に奨励し、県は補助を出して生産を特別奨励し、県は北村技師を指導にあたらせ品種に印雑を主体としたのと、茶葉が静岡県産に比較し厚く、従ってボリュームがあり、味も濃厚であった事が原因です。
しかも、三井との関係があり紅茶に限り一元集荷し、茶業会議所が県産連を介して行った事が大きな原因と思います。昭和十二年産の紅茶を三井が買付けを都合があったと思いますが中止しましたので、三井農園以外の在荷は八万キロ位あり、県が指導した関係その在荷を日紅に話した事から私はその全部の買付けに行き、現品を見ました時に鹿児島県の紅茶の荒茶製造業者は全部六番上の頭と粉を仕分けてあり、その荒茶は静岡県荒茶より品質が数段上物であった事には感心しました。
しかし鹿児島県の紅茶は昭和十五年頃からその主産地であった知覧が全部飛行場となった関係で姿を消した事は、紅茶業界にとっては残念な事でした。
県下でも大生産地牧之原が大井飛行場となりましたのと、食料不足から茶園が食料品の生産に変わりましたので、茶の生産は減少し特に紅茶は、生産の余地がなくなり、台湾からの移入のみとなり、昭和十九年六月東亜茶業が台湾から移入したのを最後に昭和二十年八月十五日の終戦を迎えたのです。
紅茶について最後に一言いいたい事は、昭和七年頃から急激に国内で紅茶の需要が増加した原因を考えますと、コーヒーのブラジルからの輸入が極度に制限された関係から最初は満州大豆を焙煎して、ミックスし、以前大衆はこれをコーヒーの味として満足していましたが、その満州大豆も食料品として配給制度になり、大豆が芋にかわり所謂芋コーヒーとなって、味覚が極度に悪くなりましたのに比較して、紅茶は統制からはずされ品質は改善された事が大きな原因と考えられる事をあえて付言します。
そして終戦後はアメリカ軍の進駐によリストレートのコーヒーが持ち込まれた事が戦後国内での紅茶の売行きがのびなやむ事になったといわれています。
昭和十年夏にユダヤ系エジプト人クレメントエムハキム氏が突然静岡駅に到着し、未知の地の為タクシーに乗ってホテルと言ったところ、駅前の大東館まで走って五十銭取られたとよくハキム氏がその後言われた程、静岡を知らず翌日当時駅頭のお茶の静岡の広告塔から静岡茶業青年団長であった小山金作氏を訪問したので小山氏は近くのマルイ大石太郎兵衛を通訳に来てもらい用件を聞き
ましたら、輸出茶特にグリ茶の仕入れをしたいとのことで駿静製茶(KK)を紹介し、同道しましたところ、話の具合から駿静製茶の専務青野直次郎氏は自社では十分期待される取引はむつかしく考えられ、再製業者の第一人者吉川合名の社長のところに同行し、会談の結果ハキム氏は静岡茶の北アフリカヘの輸出を始める事を決心され、まず第一に立会われた大石太郎兵衛氏と野桜氏とにホテル住いは金がかかるので両氏の世話で、安東に借家し、女中一人を雇って約一年間日本語と茶業事情の勉強をし、吉川氏を始め茶業者と交際を始めました。
ハキム氏は一九一一年生れで父がアフリカの資産家で、当時二十四、五歳の青‐ 年で元気澱測日本茶の研究には特に力を入れられました。
そして昭和十年北番町に開業され、社長に鈴木宏氏を通訳に、浅原襲一氏(現平和倉庫株式会社社長)を茶の買付けの助手として、グリ茶の仕入れを始められました。この時代は日本茶業中央会が鳥居氏をアフリカに派遣し、ぐり茶の販路拡張に力を入れておりました時期と合致し、しかも日本のグリ茶は支那茶の釜入リグリ茶と比較し、格安でしたのとハキム氏が日本語を勉強したので解し、
交際上手でしたので外商の内の人気者となり取引もガンパウーダー、チュンミーを主体に大きな数量を仕入れ、北アフリカ(オラン、チュニス、ベンガジ、トリポリ、モロッコ)などに輸出され、対ソビエト取引がなくなりましたが、グリ茶の輸出に大きな光明を与えてくれました。
しかしュダヤ人特有の先見の明を持つ頭の働きの良いハキム氏は、日華事件の拡大と独ソ開戦が始まるのを予知して昭和十五年日本茶輸出組合が組織されましたので、全購連へ自分の実績を無償で譲渡し、その変りに全購連はハキム氏以外には日本茶の輸出を一切しないという誓約書をとり、今度は未知のアメリカヘ十六年五月に日本をあとに行かれたのです。
結局全購連はハキム氏の渡米の手助けをする結果になり、何も全購連は得るものはなく、うまくしてやられたといえます。しかも、当時海外への持ち出し金は二千円が限度でしたが、ハキム氏は籠上の不動産(現丸暮社長古橋氏所有)を八万円で売り、全購連との契約に基づき横浜正金銀行から八万五千円の国外搬出を許可されるという頭のよさを発起してアメリカヘ渡り、日米戦争が始まりますと軍籍につき、終戦と同時に進駐軍の一将校として来日し、茶業者と接触、進駐軍との間に立ち、好意的に日本茶に対し尽力され、しばらくして茶商人として又、来日しました。
昭和十年八月下旬、清水食糧社長清水俊二氏より電話にて、「マッケンジー氏に買ってもらいたい品があるから一寸来てくれ、今車を迎えにやったから」と言いますので参りましたら、清水社長が「君に紹介する人がある」とまず発言され、自分の永年の友人である台湾で茶製造兼問屋(紅茶、ウーロン茶専門)の中野十郎氏を紹介されました。実はこの人が三井物産へ紅茶を売約する計画
で現品を三万封度清水港へ送荷し、すでに現品は到着しているが三井物産の茶業部との交渉が不調に終りその処分に困却して自分のところへその販路を求めに来た次第で、自分が日本紅茶(KK)へは三井との関係上販売する事が出来ない。そういって他に三万封度の紅茶を買い取る店はアーウィンのマッケンジー氏以外にはないと思うが、さて、マッケンジー氏に直接会ってその交渉をするのは今の貿易業界に出入する人の中で君以外にないから是非その交渉を一任するからと、そして値段は中野氏が今さら台湾へ積みもどす事は面子にもかかるのでアーウインは台北に出張所もあるから台湾の相場より安く売らせるから是非たのむと言われたのです。清水商店は私の得意先でもありますし、マッケンジー氏のアーウィンにおける地位が静岡の支店長であるのと同時にアーウィン商会の東洋の店(上海、台湾など)の総支配人である事を私は知っておりましたので、私としては台湾茶を始めて扱う好機と考えマッケンジー氏に会い、紅茶を買う意志をたしかめて、商談の出来るか否かを話す事とし、特に見切る最低値段と見本(SHIPNG oSANPL)を預り、商談一切の交渉の一任を受けて、アーウィンのマッケンジー氏のところへいきました。
私はマッケンジー氏の気質をのみ込んでおりますので、この商談は赤裸々に一切を言って、まず見本を見てもらう事が出来れば商談はできると考えました。しかし、言葉の使い方がむつかしいので、アーウィン商会の日本人の支配人であり、また通訳である長島氏を呼んでもらって話をする事にして、マ氏の机の所までいきましたら、「今の時間に何んの用件か」とまず聞かれましたので、私が考えた通り「変った茶をあなたに見てもらい、私の英語ではわかりにくい点があるから長島さんを呼んで下さい」と。お願いし、マ氏が快諾し長島さんが来たので、私の考えていた通りに通訳を願いましたら、マ氏が君がそう言うなら見本を見ようといわれたので見本と荷物はすでに清水に陸揚げされている事を直接マ氏に話しますと、値段はいくらかと言われるので、この値段について
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は無理にあなたにお願いするので、強くオーナー中野氏に交渉し、普通の考えではだめであるから、商談が出来るとすれば封度貴店渡し三十一円までというのを私はマッケンジー氏に、「三十円五十銭ベスト、アイキャンドウ」と言いましたら、一寸考えられ「アイル、アクセプト、フウワ、プライン」と言われた時私は男になれたと思い、その時のうれしさは今もって忘れられません。 清水氏は中野氏と共に非常に感謝され、荷渡しも翌日すまし、小切手をすぐ戴きました。 この紅茶取引が私の最初のもので、まさか台湾紅茶から始まるとは思っておりませんでした。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。