貿易茶物語 第7回 斡旋業と組合・新しい販路

茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第7回

THE STORY OF JAPANESE TEA TRADE

貿易茶物語 第7回

斡旋業と組合・新しい販路

大石 鵜一郎 著

斡旋業

各地区の精揉機屋を我々代理人組合員が訪問し、貿易筋との商談の斡旋をすれば直接取引が出来、しかも、貿易筋が希望する茶の指導するというと言葉は大げさであるが、悪い点を改善する事に役立ちます。各精揉機屋が市場で好まれる茶をつくる事が出来、従って手合せもスムーズに行われるからという事を強調したので昭和になりまして、従来地区の仲買人に売っていた精揉機屋から静岡への出荷が増進したのです。

一方仲買商は、静岡へ精揉機屋の出荷が増進することにより自分達の扱料が減少するので、遠州方面の一部仲買商から代人組合に、精揉機屋を訪問し取扱わなければ我々仲買商はその代人には我々の見本(即ち取扱い)を出さないから、などの意見を言う人もありました。買方は、精揉機屋の個々の茶の仕入れが出来るので歓迎しており代理人組合としても精揉機屋個々の茶を扱う事が、静岡県茶業の発展の為にもなるとの意見に一致し、その点においては一層の努力する事をきめ、代人組合員は各自店員をふやし、取引の円滑に万全を期したのです。

代人組合のこの取引の方法は、茶業連合会議所でも注目し静岡茶斡旋所を安西三丁目へ新設し中村直次郎氏(中村円一郎氏の実弟)を社長に、松浦治平氏を営業主任として安倍郡の茶を主体に取引の斡旋を始めたのです。この斡旋所が代人組合と異なりました点は、現物を集荷し、代金を斡旋所で支払った点で今日の静岡茶市場の取引方法と共通したところがあります。

又、精揉機屋の静岡市場への出荷が増加するに従って荷主の数も年々多くなり、鉄道当局から乗降客の増加を理由に駅にて見本を荷主から受取る事は自粛する様に、代人組合に申込みがありました。しかし、組合員中に産地、例えば袋井、掛川、島田、藤枝方面からも通勤者がおりますので列車中で見本を受け取る事が出来ましたので昭和五年頃から組合員は各自分の持つ地盤の荷主が乗る駅迄出張する様になり、毎朝七時三十分に静岡駅着の列車を茶業では、一番がつく時間と称し、買い方も茶の拝見場(仕入する場所の呼び名)を整理して荒茶見本の到着を待っておりました。

そこへ、代人組合員の店員が見本を提出し、買い方は品質、形状を検査して希望する荒茶に値入れし、値段の交渉に入り、売り方は同じ見本が代人の数店へ渡してありますので、支払い条件と毎日値入れしてくれる店と、時たまに値入れしてくれる店などにより値段に格差をつけ、勿論代人もこの店は大量買入れする店か、支払は現金か、手形か、時々払いかを知っていますので、値段の交渉は一切算盤で行い、所謂セリ売りの形式で売買が成立します事は業者が皆承知の通りです。

この荷主代人の仲介により、取引市場の形態が茶業独特の方法により行われる事が茶の取引を活発化させました。又、荒茶製造業者(精揉機屋と茶業者は略称します)が直接買い方と直結し、精揉機屋が同じ産地で、同じ茶葉で、同じ設備を持っていてもその製造の工程によって、製品の善悪があらわれ、どこかに欠点がある物は、従って商談に時間がかかり、値段に差がつき、自分の茶が早く商談のつかぬ事が一番本人の苦痛であり、代人としても手数がかかりますので、本人は他の売足しの速い茶の見本を貰い、代人もその茶の欠点を指摘して改善させる指導をくり返した事も、静岡県の茶が急速に発展した大きな要素となった原因といえます。

なお、取引の時の明記された数量に相違した場合、例えば三〇本と記してあったのが二〇本になった場合は取引が貿易筋主体であった関係もあり、非常にやかましく、特別の事情である以外は、荷口の拝見をせず値引も取引もキャンセルされ、その荷主の見本は買付けせず代人も度々重なるとその店への出入りを止められる事になりました。

この点の今の現状はどうかというと、後から高い値段を聞くと商談した茶の方の荷渡しの数量をへらし他の方へ売るという精揉機屋も悪いが、斡旋業者もまず第一にその荷主に荷物のあるかないかを聞き、ないと言ったら値段をきかず、あきらめる事が必要と考えます。

この事が斡旋業者が取引の中心母体である以上、断固心すべき事で、買い方もその点心すべきであると考えます。

昭和五年からの製茶売込荷主代理人組合のメンバーにも移動がありました。業界の名物男南城一六商店とマルヤ飯田商店、乾商店は廃業し、永野幸一郎氏が組合長となり次のメンバーとなりました。

フジヤマ一永野商店、大浜商店、金谷連合(代表半場)、マル二小野田商店、マル一大石商店、ヤマ正榛葉商店、サス二横山商店、マル三望月商店、マル中小長谷商店、カネ治鈴木商店、フジヤマ本市川商店、フジヤマサ佐藤商店、カネ源杉山友作商店、ハセ友商店、マル松青島商店、マル浪藤波商店、マルカ杉山商店、三岡商店。

小野田、横山、カネ治鈴木、マルカ杉山、佐藤(敬称略)は旧主人の了解と組合員全体の承諾を得て円満裡に独立したので、組合員の結束団結は一層強化されました。

県信販組合とスリ売屋と代人

丁度その頃県下に静岡県信用購販売組合という組織が農村の生産者を対象として生れ、町村単位に支部が置かれました。これは今の農協の前身といってよいでしょう。農村の個人への金融と日用品、肥料などの販売を主体として成立した組合組織でした。この組合が荒茶の委託販売を始めました。

この組合の方針として小笠郡の町村、特に笠原村、大坂村、中内田、加茂、川野などの各村の支所は生産家に粉を抜いて(除去して)出荷させました。

一方内地向き需要も生活水準の向上により需要が増加し、静岡市の内地問屋のヤマ上水上、ヤマ小小山を始めとし、カネ小金子、ヤマ木鈴和、ヤマ二成岡、ホシK河村、カネ久上田商店(敬称略)などの発展がすさまじく、扱い料の増大にともない所謂通称スリ売り屋つまり内地再製業者が誕生したのです。

元静岡茶商組合理事長の若杉平六氏を始めヤマ新本目、ヤマ一前源、カネカ米兼、ヤマ八前田、ヤマ十海覚商店などが内地再製の草分けといってよいでしょう。従って売込荷主代人の仕事は年ごとに増加し代人組合にも新しく杉山友作氏、望月伊作氏、カネト野中商店が新規加入し組織を強化し、団結をつよめ売買双方から信頼される代人組合にと努力したのです。

当時、製茶売込荷主代理人の店の事を業界では代人と略称したのは、内地再製業者の事をスリ売屋と称したのと同じです。

しからばその代人が扱う荒茶の見本をいかにして手に入れたかというと、静岡以西の荷主は当時の交通状態から静岡駅着七時二十分と九時頃着の列車で、東部は八時頃の列車と九時頃の列車で到着しますので、代人の店員が駅迄行き、荷主は自分の思う代人の二、三店へ見本を渡し店員は各自に自分の店に持ち帰り主人の命令にしたがい買い先へ持参、商談をしたのが始まりです。

そして、十時頃迄には特殊茶を除き荒茶取引は毎日大体終了しました。

代人の活躍によって一番打撃を受けたのが荒茶委託問屋で、集荷が減少しその店の持つ地盤は次々に代人組合にうばわれたからです。

ここで県下の静岡以外の茶業界を眺めますと静岡につぐ集散地は藤枝でした。それは志太郡産の茶が輸出茶の内野篭茶(バスケットファイヤード)B・Fに適した茶が出来たからです。従って、サスナ笹野、カネ三西野商店の一統、マル花花沢、カク二鈴木(鈴幸氏の実弟)、マル古松田など内地貿易兼業の商店が貿易茶の再製に力を入れました。他に内地問屋として榛原町の佐塚屋、カネ吉大石仙作氏、相良のサス宇伊藤、カネ八鈴木商店、池新田のマル中中山、島田のマルニ、岡部の駿岡社などが特に目立った存在でした。

この郡部の業者も中級品以下の茶の再製技術については静岡のスリ売屋(内地再製業者の略称)の製品より劣りますので、大正末期から下級品の内地向け製品を代人を介し、取引されました。そして現在に於いても静岡のスル売屋の製品は藤枝を始め県下の業者に斡旋業者を介し取引されている事をつけ加えます。

一方、買い方には昭和になって大きな変化がありました。特に貿易業者が関心を持ちましたのが、アーウィン、ハリソンエンドクロスフィールドとホキットニー商会の合併でしかも荒茶の仕入も始めた事と池田本間商会が解散して池田謙三氏が旧英一番の跡を買い取り新しくBA商会を開業し、荒茶を専門に仕入し自らの工場で再製し、輸出を開始した事は業界に大きな衝撃を与えました。この二社の荒茶仕入は県下精揉機屋に大きく響き、静岡市場への出荷する業者が増加しましたので代人組合店の取扱は一層増加しました一方、荒茶委託問屋への荷主の出荷は減少し、尾崎国産社他数店は廃業し、特殊の関係を持っていた水上委託部、マル八望月とサス中牧野商会、マルイ大石太郎兵衛店の四店となりまして、荷主代人組合は荒茶取引の重要な存在となりこの取引方法で日米国交断絶の十七年迄つづいたのです。

さて、この時代の荒茶大手仕入筋は外商では、ヘリヤ商会、アーウィンホキットニー商会、日本人商社で富士製茶、日本製茶、再製者としては、ヤマ吉吉川合名、伏見製茶、駿静製茶を筆頭にサス吉武田、マルは山本、カネ久上田再製が静岡製茶と変わり、静北製茶などが釜茶(P・F)の主なる業者でした。

そして、内地問屋は、ヤマ上水上、ヤマ小小山、カネ小金子商店を始め歴史の古い鈴和商店、貿易再製から内地問屋になり通信販売の元祖ともいえるヤマ二成岡蓮三商店、そして成岡商店から別れ独立したヤマ二石川四方蔵商店、荒茶の市中販売をやめて、内地問屋専門になった新進、サスボシ小林商店などの進出には目を見はるものがあり、ヘリヤ商会の出物を引受けたホシK河村商店の存在も忘れられぬものでした。

又、赤沢屋は貿易再製と内地問屋としてマルウ宇和商会などと共に問屋として活躍されました。

業界以外からの茶業進出者として薬業界でその名を知られておりました星製薬株式会社が清水俊二氏と協定を結び内地販売に特殊のルートを使い進出したのも昭和の初期でした。

そして、昭和十年頃、日本紅茶株式会社が三菱の子会社北洋商会と結び、日ガサ印煎茶を売出したのは昭和十年頃でこの方法が現在スーパーなどにて茶が売られる様になった要素と考えます。

一方、内地再製(スリ売屋)もグリ茶を再製し貿易筋への売込みを開始する業者がしだいに増加し、工場も大型化し、ヤマ新本目商店、ヤマ一前源商店、カネカ米兼商店、サス二若杉商店、カネモ朝比奈商店、ヤマ八前田商店などがあり、マル文佐藤、マルモ森商店なども進出しました。

郡部再製にも大きな変動があり、藤枝のサスナ笹野、カク二鈴木、江尻(清水市)の石貝氏、掛川の堀再製など横浜時代からの名舗が姿を消し、榛原町のカネ万三有原、相良町のサス宇伊藤、掛川の笹野再製、袋井の大矢再製、牧之原のヤマサ栗田、焼津のマル合服部商店などが進出し、藤枝はカネ三西野商店とヤマ一本店の一言弥太郎が、藤枝の市場を牛耳り、島田はマル三、山二製茶など振山が中心となりましたが、榛原郡吉田町のカネ万中村製茶部は郡部の王者として業界に君臨しておりました。

次に、荒茶の出荷状態も昭和になりまして鋏刈や精揉機などの改善と普及の為年々増加し、従って精揉機屋の数も増加すると同時に、一日の各工場の製造量も増加して来ましたので、その他の仲買人に商談せず直接静岡を始め、藤枝などの茶市場に出荷し、代人組合員を通して取引する方法が進み、昭和十年頃には荒茶仲買店は特殊地域の荒茶、たとえていうと荒茶工場の設備の小さい工場の多い所(堀の内、菊川近辺、掛川、川根、金谷、森町など)を除いて殆んど廃業し、社の茶と精揉機屋の荒茶が大半を占めました。

ここで昭和五年頃から茶が統制になります迄の精揉機屋の大手をあげる事も思い出の一つとなりますのであげてみますと、静岡を中心に西部では第一が島田のマルカでグリ茶を毎日一三〇本(四〇 入)を静岡へ出荷して来たのを筆頭に同じ島田のマル共、マル中、牧之原のカネ久鈴木、マルス鈴木、榛原のマル仁、マル吉、諸井(袋井市)のマル大大石、浜松のカネ上、マル浜、東部では庵原のカネ中中村、ヤマ田村田、カネ二大沢、カネ石石原、カネ久、富士でマル元竹川、マルス鈴木、駿東のマルト岩友、マルモ三須などは盛時には五○本から八〇本位製造した精揉機屋でした。

今このメンバーを書いて思い出す事があります。それは、製紙界、社会人野球でその名声を謳われる大昭和製紙の創立者社長故斉藤知一郎氏。昭和三年と思いますが、吉永村、今泉村(現吉原市)の当時一〇本から二〇本位の荒茶を製造する精揉機屋と相談して静岡の茶町通りに集合所をつくり、そこで各自の見本を各自好む所の代人組合店に渡し、商談した時のメンバーの一人に名前はカク米斉藤兄弟製茶工場と称し、毎日一二、三本の荒茶を静岡に持って来た精揉機屋さんでした。

このカク米斉藤兄弟製茶工場は、二、三年で精揉機屋を廃業し、製紙業に専念され、またたく間に富士郡下の製紙業者を合併して大昭和を建設されたのです。カク米斉藤兄弟製茶工場の売込みに来られたのは主として弟さんで私も、その茶を斡旋取引した事もあり、斉藤知一郎氏にも二、三回商談の話をした事がありました。当時で言うと小規模の精揉機屋さんでその方が大昭和の社長になるなど当時は考えられませんでした。

話は横道に入りましたが、思い出したので書きつづった次第です。

さて、この荒茶は、一番茶、二番茶の盛期には買入筋にヘリヤ商会、アーウィン、富士製茶を始め大手再製筋の毎日の仕入量は、一日一店三万キロから多い時は一店で一〇万キロの買附をするので午前中には、今と同じ様に取引は完了されたのです。

貿易筋の買入れ相場が、大きくいえば日本全体の茶の相場となったといっても過言ではありません。なお、今大手筋の名前をあげましたが、この人々の内、現在も生産をつづけている工場は、極少数で所謂戦後派と交している事を見ますと感無量のものがあります。次に、各産地に大型精揉機屋の出現により地元生産の生葉だけでは原料不足となり自動車運輸の発展と共に、生葉の交流が昭和の始めから次第に激しくなり、国道の富士川鉄橋が完成されたのを機会に東部の生葉生産量の半分は富士川を渡り、榛原郡あたり迄も交流される事となりました。しかし、当時は道路が今日と異なりますので遠路は生葉の中へ氷をいれて運搬するのが常例でした。この様に静岡の市場へ集まりました荒茶の大半は代人組合員の手により商談されましたので、代人組合の責任を持って、商談をすすめ、各代人の店もおのおの特定の得意先を持っておりましたので、盛期には一店一日の扱数量が一千本を越す日が度々がありました。

しかし、生葉の摘み取りが鋏と変わりましたが、茶園が鋏刈り園になっていませんでしたので、荒茶に茎が多く、従って再製茶にも茎の加入が増えてきました。

特に中級以下の品には、茎が目立ち、アメリカ及び輸出先から苦情が持ち込まれ、曰く「茎が多い」即ち荒い言葉では「材木が入っている日本茶」などといわれましたので、日本茶業中央会は外商始め輸出商と相談し、業者の了解も得て、茎の含有量の検査を輸出茶全部に実行したので、この事は非常に効果があり、茎の非難はなくなりました。しかも検査所が水分の含有量迄検査した事は検査所のヒットといえます。

また、再製業者は、今の棒取機がない時代でしたので、茎の含有が多い部分を内職に出し茎を取りのぞきました。一つ余計の仕事が増えた事は事実ですが、家庭では綺麗な内職と歓迎されたなどの反面もありました。

清水食品(代表者清水俊二氏)と星製薬との提携

新しい内地取引の方法を考えられ、そして新しい経営方法で取引を考案されたのが清水食品の清水俊二氏です。同氏は従来と異った包装で煎茶また棒茶を販売されると同時に、当時の薬種業界の話題の中心であった星製薬と共同提携し、「星のお茶」と題し星製薬の特約店での販売を開始し、業界を驚かせました。そして、三年程で星製薬は末広町のアーウィン商会が移転されたのでその跡地を買い、独立されましたが、工場を含め建築物全部を火災のため焼失しましたので姿を消しました。

これが茶業者が他の業界と結び、茶業の販路を新しくひらいた第一歩と考えます。

これと同時頃に関西では森永製菓が宇治上泊の業者と提携して、ほうじ茶を名称「宇治かおる」として売出し、東京方面では相当の需要を喚起しました事は、ほうじ茶の今日の売行きをみる元祖といえます。

出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。

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