貿易茶物語 第5回 三つ手の商談・機械化・静岡駅での販売

2026/10/22

茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第5回

THE STORY OF JAPANESE TEA TRADE

貿易茶物語 第5回

三つ手の商談・機械化・静岡駅での販売

大石 鵜一郎 著

三つ手を打つ

茶業者間の取引成立は、商談がまとまりますと売買双方が三つ手を打ち合い、商談の成立を示し、売買契約書などは一切なく、外商もこの習慣を承知し、茶の取引はその数量の大小を問わず、この手を打つ事により取引についての問題は起こらぬのが茶業取引の特殊の取引方法です。

この三つ打つ事は、どの時代から始まったかと言うと、東洋人、特に支那(中国)の一部では昔からあったと言う事で、日本では明治維新前に魚類などの取引に用いられた記録がありますが、明治となり横浜に生糸、羽二重の市場が出来、その商談は現在の如くスピーカーもない時代でしたので、算盤を使い仲買人と買主とが三つ手を打ち合い商談が成立した事を他人に知らしめる為に行なったに始まります。

この商談の方法が対米輸出茶の横浜市場が始まりました時から今日迄つづいており、手を打つ事により商談の成立の確約が出来て、売主は現物を買主に荷渡しし、買主は受取る責任を持ち、破約は許されず、実行されています。

一例を言うと外商ヘリヤ商会、アーウィン商会などでも、売買契約書などは発行せず手を打って現物が受渡ししないなどの事故はなく、この点茶業者の仁義といいますか茶業取引の特徴といえます。

荒茶製造の機械化

県及び静岡茶業会議所の奨励と生産家の自覚により茶園面積は拡大するのに従い、摘取り人の手が不足をきたしたので茶バサミが考案され、従って大量生産にともない精揉機、揉念機が松下式、伊達式などと考案、改善され、荒茶の生産と荒茶の形状に大なる変化がありました。再製の方法も変わりましたが、最初の内は茶園が鋏刈りに適せず、茎茶の混合の多かった欠点があります。茶園の方は鋏刈りが適する現在の茶園にかわり大正末期からは棒取り機も発案され製品の質も向上しました。一方、茶の生産も茶園面積の拡大と荒茶製造機の発展により荒茶製造業者も規模が大きくなったのと同時に鋏刈りが次第に普及されてきました。

また、内地の茶の需要も生活水準が上ってきました関係で茶の使用量が増加し、内地問屋も販路の拡張に最善の努力をした関係で、扱い量は年々増加の傾向がつよく成りました。

荒茶製造機の改良進歩により今迄水色が悪く一般に好まれなかった土地の茶が機械化により水色がよくなり、一人前の茶となった事などは機械化による恩恵といえます。

内地問屋は、一例をあげると静岡における水上、小山、金子、藤枝の藤栄、西野、榛原のカネ吉大石など貿易筋商社におとらざる数量を扱う様になり、大正五年頃からは一番茶の初期は内地筋が相場をつくりました。

大正十一年になりますと荒茶製造の機械化が進み、機械製の荒茶が出始めました。

その第一は相良の今村製茶工場の製品を南城商店の手によりヘリヤ商会に商談したのに始まり、地方仲買人も機械製の荒茶を合組に使う店が増加してきました。又、精揉機など仲茶の機械の急速な改良と同時にグリ茶の製法も機械化し精揉機を使わず、ガラ機による製法が考案され、それが実行され特に庵原郡の生産家がその研究に熱心でしたので、グリ茶が商品化されたのです。そして、ソビエトは領土の一部で緑茶(グリ)を常用していましたので、その茶を中国から輸入していましたが、日本でもグリ茶が生産される事を知り、大正十四年にアーウィンハリソンホキットニー商会に試買を委託し、商談が成立しました。

アーウィンハリソンエンド

クロスフィールド商会の出現

アーウィンハリソンエンドクロスフィールド商会が来静し、支店を静岡に開店することになりましたのを静岡の茶業者は知らず、スキート氏をゴットリーブの一社員だと思っておりました。

スキート氏は、茶期中ゴットリーブ商会で仕事をしており、茶期間在静され、十一月帰られました。そして、ゴットリーブ氏もその年までは毎年十月に帰米されるのでしたが大正五年には十二月迄在静されましたので、出入茶業者は変だと思っていましたが、ゴットリーブ氏が帰米されると入れ替りにスキート氏が再来され、当時ゴットリーブ商会と一番取引の多かったヤマ吉吉川合名を突然通訳もつれず一人で訪問したのです。私は少々会話が出来ますので、北番町工場からすぐ本店へ来る様にと電話があり、行きましたらスキート氏が吉川御大と武田安太郎氏と三人でおられたのには驚きました。

武田氏も私も、スキート氏とは知り合う仲でしたので、スキート氏曰く篠田(ゴットリーブ商会の通訳)を話があるから呼んでくれとのこと故、吉川御大の命令で武田氏と二人で篠田氏を呼びに行き同道して店に参りました。そこでスキート氏は帰米に見せかけてゴットリーブ氏の帰米を上海で待機していた事と、ゴットリーブ商会を買収済の事実と、明年からアーウィン商会(略号)が来静し、工場を建設し支店を開店する事を告げ、吉川御大に建設開店の一切を依頼協力を求めたのです。

ここで吉川御大は当時の業界の長老で世話好きの石垣長右衛門氏に土地と工場の建設を依頼し、同氏も茶業の為ならと自己の末広町の土地に(現ロイヤルホテルの隣)倉庫、荷造所、事務所を昼夜兼行で四ヵ月で落成させ、アーウィン、ハリソンクロスフィールド商会が、八年四月にAPアーウィン氏とマッケンジー夫妻とスキート氏を同伴来静されたのが日本進出の第一歩です。

そして来静された翌々日には、新事務所で買付けをするから見本の提供を昨年迄ゴットリーブ商会に大手取引をしていましたヤマ吉吉川本店、吉川北番町、ヤマ二伏見製茶、カネ万中村、藤枝のカク二鈴木、焼津のマル合服部商店などに求めましたので、当時吉川本店の外交係は武田安太郎氏、伏見製茶は吉永孝三氏、カネ万は中村来吉氏、吉川北番町は私でした。そして、カクニ、マル合は店主自らが見本持参し、一方アーウィン商会は前年から来静されていたスキート氏が買付け主任だと皆が考えていました所、意外にもマッケンジー氏が見本を見て、値段を聞き、第一回の取引故、ワンプライスの値段を売方も出し、マッケンジー氏はOKされ、取引は円滑に成立しました。又、スキート氏は我々をマッケンジー氏に紹介されただけで取引にはその後も一切関係しませんでした。

マッケンジー氏は再製茶の買入一切を助手に森再製(安西一丁目)の仕入主任であった青木氏を使い、初年にかかわらず約八百万封度の仕入れをされました。静岡の名誉市民に後年推薦され、一般市民にも親しまれたマッケンジーの奥様も一緒に来静され、店で毎日アメリカ本国への通信を一切されており、その勤務振りは今でも目に残っております。

そしてその翌年からは、マッケンジー夫妻のみが来静され日米戦争が始まり、外国人の資産凍結が発令される迄営業をつづけられ、最後は大谷の御宅に軟禁されアメリカ商として最後の船で上海廻りで帰国されたのです。静岡に来朝されたアメリカ商の内で、アーウィンハリソンクロスフィールドはその組織が一番大きく、日本茶以外に台湾紅茶、セイロン紅茶、支那茶など茶と名のつく品は全部取扱われていた商社で、その点、荒茶を専門に仕入れ、自己再製し、静岡人に親しまれた個人経営のヘリヤ商会などとはその組織に大きな相違があった事をこの機会に付言します。

このアーウィン(略称)商会も年々取扱いが増加するに伴い、工場の拡大が必要となりました時丁度、北番町英一、ジャーデンマゼソン商会が日本茶の営業を廃止し、その工場が空きましたので、大正十二年移転し、再製設備もありましたので、特殊注文の荒茶も少々は仕入れられ、その輸出量は他の外商全体の仕入量とほぼ匹敵する取扱いをしたのです。

静岡茶の静岡駅にて販売

大正十年吉川合名の社長吉川覚次郎氏は、長老石垣長右衛門氏とはかり、煎茶一封度入り缶詰を茶業宣伝のため、静岡駅内売店及びホームにての立ち売りを計画し、駅の許可を得、立ち売りは東海軒の弁当売り人に持たせて列車の着くごとに売りさばきました。名称は静岡茶駅売販売(KK)とし吉川氏が社長となり、輸出茶再製業者の有志を以って設立されました。工場はサスカ石垣の工場の一部を借り、容器は普通の丸缶と異なり長方形の角缶でブリキ印刷されて売出した事はお茶の宣伝に大きな効果がありました。

当時ブリキ印刷の缶は茶業界では初めてでした。この印刷缶の製造所は東京でも二、三カ所しかなく、著者が東京の鉄工組合長と懇意である事を吉川社長が知っておりましたので、私に同氏に紹介をたのみ印刷缶の製造所に行き、一万個を注文する事を委託されましたので上京し発注しました。

出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。

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