2026/10/22
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第4回
貿易茶物語 第4回
大石 鵜一郎 著
又、当時静岡県購買販売信用組合の支所が県下の町村に出来、日用品の販売をしておりました。その内小笠郡、富士郡など茶の産地にある支所は、静岡に於ける荒茶取引の状態を観察し、その土地の小規模の製造家の荒茶を集荷し、粉を除去して静岡への出荷を考え、最初はその製茶を直接貿易、内地の商店に売込む事を考えましたが、その計画は失敗に終わり代人組合員の店の数店を指定し、一般業者と同じ取引方法で代人組合員が斡旋取引をする事になりました。
しかし、この信用組合(略称を社の茶と呼ばれました)の出現が昭和十年頃に県産連茶業部となり、又、今日の農協となり業者と競争する今日の第一歩であったといえます。
それはさて置き、当時小笠郡笠原村マルカ農産、三栄社、大坂組合(現在の大須賀町)、佐束、土方、加茂(菊川町)、袋井市法多のマル豊豊沢、マル一菩提などの茶は、市場特に貿易筋では歓迎されました。
又、信用組合の組織で茶を取扱う支所は、静岡の近在でも有度信用販売組合、今の清水市当時庵原郡不二見村にも出来、又、東部では今の富士市のマル吉吉永、マル原原田、マル中中里などが出来、毎日盛期には一組合の静岡向出荷量が少なくて三千㎏、多い組合は五千㎏の荒茶を取扱い静岡へ出荷していたのは大正五年頃からでした。
しかし当時庵原郡第一の茶生産地庵原村(今の清水市)で製造された荒茶は、当地の仲買商マルヲ小杉商店、斉仙、斉清などの有力なる仲買商が牛耳っていたので県信連支所の進出の余地がなかったのです。志太郡の葉梨組合の茶も、特殊の茶で記憶にあります。
この社の茶の内でも、大坂マル大、佐束組合などの茶は、特に品質もよいのでヘリヤ商会など商館筋へ大半取引きされ、又、東部の組合の茶ではマル中中里組合の製品がよくバスケ向きに最適でしたので一流筋にすぐ取引されました。
この様に、組合の茶が多く集荷された原因の一つには荒茶製造機つまり精揉機、揉捻機の改良発展とそのメーカー、今の菊川町のマル松松下工場、藤枝の伊達、清水の高林、金谷の川崎鉄工などが考案し、その所在地の近所から売出し、購買販売組合と連絡をつけた事が、その普及に大きな力となりました。
しかしこの社の茶もその販路については、その土地の仲買商には販売せず、静岡の貿易筋を主体に大体全部静岡へ出荷されました。
この「社の茶」は、直接取引を希望しましたが当時外商のナンバーワンの荒茶を仕入れるヘリヤ商会は直接取引を断わり他の商社再製筋も従来の慣習に従う様勧告しましたので売込荷主代人に取引を委託する事になりました。しかし組合組織で数量も多いため、扱料を特別にせよとの申し出もありましたが、代人組合は扱料に甲乙をつける事は出来ないと断固これを拒絶しましたので一般と同一の扱料にて取引することになり組合は取扱いに荷主代人を二店指名されたのです。
この口銭問題で荷主代理人組合は従来より一層団結を強め、昭和の時代になっても一糸みだれぬ結束をし、荷主にも信頼され静岡へ見本だけ持って行けば取引は荷主代人が希望する店へ売買してくれるといわれる基をきづいたのです。
この組合の茶を茶業界では略して「社の茶」と称して貿易一流筋に売足も早く取引されました。その原因は従来の問屋筋が扱っていた茶と異なり、生産地特有の味と香りを持ち、しかも粉を除去してあったのが大きな原因です。
そして当時静岡に取引された地方の代表的な荒茶仲買店は、牧之原のマルア後藤、カネア絹村、カネソ藁科、ヤマサ栗田(現在牧之原で内地商として活躍)、榛原のヤマ三加藤、ヤマ田濱田、サスカ川村、金谷のマル三共同、太田、サスタ柴田、勝見屋、掛川の角替、原田、菊川町のカクト石川、マル木青木、初倉のカネキ河村、見附のキュウボン、日坂のサス太水野、横須賀のヤマリ土屋、相良町のヤマ二西川などと東部は庵原村の仲買人と当時の富士郡吉永村のマル三、他三〜四店と岩渕のサス三斉藤、焼津のヤマ上多々良商店などが荒茶仲買店として荒茶を静岡市場へ毎日大量持込むメンバーでした。
そして毎朝の取引の始まりは、ヘリヤ商会と一流貿易再製と値段の交渉に入る荒茶は、マルア後藤、カネア組村、カネソ藁科などとカネキ河村の茶が交渉の対称となり、その出来値がその日の相場の立値となりました。これはに貿易が茶の取引におおきな影響力を持っていたかをあらわすものであります。
そして当時の一番茶が盛期に入りますと内地問屋筋は、貿易がこの年の新茶をいかなる相場で建つかを見る為貿易筋の取引状況を見きわめて買付けを始めますので、盛期の最初は荒茶取引を四、五日間は見送る程貿易筋が茶の相場をつくったといえます。
当時仲買店が毎日出荷してきます数値は一店一口の荒茶の数量は一五貫目入りが五〇本から八〇本位で、それを荷分けして数店へ売る事は買方が承知せずいかなる大荷口でも一店へ商談をまとめましたので、値段の押合いには激しいものがあり、今日の様にその値段なら自店へも分けてくれなどと言う事はなく、売方もその様な事はせず代人も
「今日は自分の得意先の付け値が弱かったから」と綺麗にあきらめました。
話は前にもどりますが、貿易が横浜から静岡へと変り、取引も貿易茶再製業者が出来、輸出商は再製茶を仕入れる様になりました事は前述しましたが、アメリカへは釜茶、篭茶の他、玉(NIBS)、粉(SIFTING)が輸出されました。しかしその内の粉は内地需要があり、値段の関係で貿易筋が粉のみ買うという事は困難でしたので、釜茶取引の際、釜茶取引数量の一割のSIFTING、一分のNIBSを今日でいうだき合せで適当の値段で取り引きする外商もあり、不足分は粉だけの取引もあり、相当量のSIFTINGが輸出され、為替関係の関係で内地向け粉茶迄取引された事もありました。
次にアメリカ、カナダへは下級品の輸出品も見のがす事が出来ません。
アメリカへは、下級品にUSA、ガバメント、ダードの見本がありこれを標準茶と称し、アメリカの輸入港で着色の有無と品質の検査があり、品質が標準茶以下ですと入荷拒絶、逆送という事になる規定がありました。
最下級品つまり標準茶が米国で需要があり昭和の始まり迄は特にその注文があり輸出商は大口に買付けました。しかしその現物の受渡しには、標準茶の規定がありますので、仲々むつかしい物がありました。
明治の終わり四十五年から大正二年になる頃にはハント商会、横浜からゴットリーブ商会、ピーターソン商会、フォルジャー商会などが静岡に店を持ち再製茶の仕入れを主体にしました。特にゴットリーブ商会は安西の森再製の事務所に店舗をかまえ、ヘリヤ商会につぐ多量仕入れでしたし、多くの話題を残しました。
話は前にもどりますが、ホキットニー商会は富士製茶に一年間店を持ちましたが、神戸製茶が廃業しましたので、その工場を買い取り再製茶の仕入れを主体に荒茶も少々は買付け再製加工もしました。
かくして日本茶の輸出は横浜から静岡へうつりました。そして横浜時代と異なりました点は茶の再製が機械化した事と再製業者の出現により外商が工場を持たず再製茶の仕入れにより製品を買入れ営業が出来るという点が、
取引上大きな相違で、横浜名物居留地のお茶場が姿を消し静岡が日本の茶市場となった次第です。
かくして静岡は日本一の茶市場となりましたので静岡市経済の中心は北番町、安西の一角に移り、しかも外商の各商社は小売用の半封度から一封度の袋詰めまで包装する為、日々四、五千人の茶業職工が北番町方面をにぎやかせ、また静岡茶のみにては数量不足のため、伊勢、奈良を始め九州、四国の茶も静岡に集まり茶業王国静岡は立派に成長しました。
静岡からのアメリカ(カナダを含む)への輸出は、明治四十年頃から第二次世界大戦までつづき、殊に明治四十一年頃から大正時代まではその数字がしめす通り茶は重要産業としてしかも本県にとっては茶あってこそ経済が成り立ったのです。
荒茶を主体に取引したヘリヤ商会、富士製茶、日本製茶(メーシー)を始め各輸出業者は荒茶委託問屋から各商社の専属の仲次人を使い見本を集め、これを仕入れして再製したので生産者との直接取引はごく稀であり、その委託問屋は次のとおりです。
サスカ石垣
水上委託部 (主として遠州茶を始め全国茶・再製茶)
マル八国産社 (主として遠州茶と伊勢茶)
尾崎国産社 (近在の茶と浜松茶)
カクセ飯田商店 大石屋 (本山茶)
カク二鈴幸商店 (遠州茶、近在茶及び各県茶)
海老名商店 (庵原、富士茶)
(遠州茶及び他国茶)
サスボシ小林商店(本山茶、ワラシナ茶)
マル千川口商店 (ワラシナ茶)
カク二渡辺商店 (北街道筋の茶)
野崎商店 (安倍筋の茶)
(近在茶)
などが主なる荒茶委託問屋でした。九州茶はマル宇宇和、園部商店でした。
ピーターソン商会、フォルジャー商会、古谷商会などで再製業者との間の取引は火見本により各商社の好みにより再製業者は造り、原荷取引はごく稀でした。
そして各社は特殊注文もありました。主なる取引先は選定され、一例をあげますと、ゴットリーブ商会は吉川、伏見、堀、石貝、吉川、北工。ホキットニーは伏見共同製茶(後の吉川合名北工)、駿静、静北。ハントは吉川などとまず注文茶の仕入れをし、再製業者は注文をうけて荒茶の仕入れを選定しました。
再製茶を仕入れの主体としたのは、ゴットリーブ商会、ハント商会、プール商会、ホキットニー商会、シーグフッド、ピーターソン商会、フォルジャー商会、古谷商会などで再製業者との間の取引は火見本により各商社の好みにより再製業者は造り、原荷取引はごく稀でした。
そして各社は特殊注文もありました。主なる取引先は選定され、一例をあげますと、ゴットリーブ商会は吉川、伏見、堀、石貝、吉川、北工。ホキットニーは伏見共同製茶(後の吉川合名北工)、駿静、静北。ハントは吉川などとまず注文茶の仕入れをし、再製業者は注文をうけて荒茶の仕入れを選定しました。
再製茶の取引は前に述べました通り取引の過半数を占めました。そして、荷渡しは三日後位から十日間が普通で、一回の取引は少ない品でも八十封度(通称百箱)で、大体普通取引は二万封度一口が定例でした。
バスケ茶、アイノ茶は釜茶に比較して工場設備も小さいので、一口は五千封度程度でした。
ゴットリーブ、ホキットニー商会は大量に買付ける時は一日に十五万封度から三十万封度買付ける日が度々あり、従って荒茶相場にも変化がありました。
そして、値段は一番茶売初めが五十円(百封度)位から始まり三十五円程度の品が一番よく取引され、標準茶(アメリカ政府指定最下級品)は二十円程度で、粉茶(シフティング)は八円位が当時の平均値段でした。粉茶は、全部一封度入袋詰で輸出されました。他に玉茶(NIBS)は七、八十円で取引されましたが、数量は製品が少なく少量でした。
また、輸出茶の販路も外商の手により拡張され日本茶の生産の二分の一以上が貿易に向けられ政府も外貨の獲得に大きく貢献しますので奨励しました。
明治末期から大正の終りの頃までの輸出量は増大し、茶業全盛時代がつづきました。金額こそ、生糸、羽二重、機械製品などに比較して少額でしたが、茶は肥料代をのぞき全体が生産家に入りますので、農家としての収入は他の工業と異なり静岡県の各産地はめぐまれ静岡県財政に大きく寄与されました。しかもその取引の中心地である静岡市の北部(茶町、安西、北番町)方面は五月から十月末までの茶期における繁盛は、見る可きものが多数ありました。
次にこれは参考までに述べるのですが、当時の各再製業者加工再製費は平均一メ匁二円五十銭位が見込まれ、荒茶を釜茶に再製しますと、荒茶の七半から八割で製品化されたのです。そして当時の職工さんの日給は男子が一円五十銭が最高で、女子は五十銭(日給)が最高で就業時間は午前六時から午後五時までが通例でした。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。