2026/10/22
茶町の歴史 / 貿易茶物語 / 第2回
貿易茶物語 第2回
大石 鵜一郎 著
明治三十八年の日露戦争の結末は我が国に新しい時代を築く礎となり、国内経済界は勿論、輸出入貿易にも変化があり特に横浜、神戸などの外国の租借地(いわゆる居留地)の返還などはその一例です。
そこで横浜のアメリカ、イギリス居留地に広大な工場を持ち、経営していた外商には、大きなショックで、それが外商が産地の静岡に移転した一つの原因といえます。
しかも、原崎、大石両氏の機械による火入れ再製釜の発明により従来の手釜による火入れより場所も狭くてしかも人員の整理ができ、再製茶の工場の縮少が可能になったことと、清水港が貿易港となり、輸出に便利になった事が移転に拍車をかけたといえます。
一方、地元静岡においては、前述の日本製茶株式会社(社長大谷嘉兵衛氏)の創立により業者も貿易茶の再製を考え、富士製茶は工場を増設し、吉川覚次郎氏(吉川合名の創立者)、成岡甚之丞氏(現三和茶業の社長浩次郎氏の尊父)、赤沢屋などが、原崎式再製釜をすえつけた工場を建設、また水上房吉、小山兼吉、吉川國太郎、高須氏等が主体となり駿静製茶を、鷹匠町には海野孝三郎氏(当時の一般の人は同氏の名称を井川の殿様と呼び、安倍一の素封家で、日本茶業の発展のため持てる財を全部茶の為につぎこんだといって差支えない茶業の恩人です)が東洋製茶を創立したのと、横浜茶市場の荒茶委託問屋の右翼に位置していた明石屋吉永商店が、材木町の伏見忠吉(当時の静岡財閥)と提携して伏見製糸を建設、また上田栄吉氏はカネ久上田再製を北番町に、そして日本郵船社長近藤氏は、本社が清水港開港に尽力し、茶の輸出港の発展には自らも茶の輸出を考え、日本共同製茶株式会社の社長になり、県下藤枝、牧之原と北番町に工場を建設し、外商を横浜から静岡に移転させる体勢を整えたのです。
一方、明治三十八年末、横浜外商のトップクラス三十六番館エブリル商会が社主の死去により茶業から手を引く事になり、業務一切を支配人グロー氏にゆずりました。
同氏は富士製茶と話し合いの結果、静岡の富士製茶の一部を借り静岡で新しく開店する事になりました。
このグロー氏が後のホヰットニー商会の創設者である事を付け加えます。
そして富士製茶の製品だけでは注文が間に合わなくなり、再製茶取引きも開始したのです。
さて、横浜時代は再製茶の取引きは、僅少でしたが、前記した各氏と静岡茶商が一丸となり再製釜の発明により前途再製茶の取引きが中心になる事を信じ、再製業開始に全力をそそいだ勇気と決断は高く評価されるべきであり、今日お茶の静岡といわれるのも前記諸氏の努力の結晶といえます。
なお、郡部にても吉田村のカネ万中村円一郎氏、藤枝町の笹野徳次郎氏、横浜で荒茶問屋を経営されていた堀有三氏が出身地掛川に再製工場を建設し、つづいて藤枝にカネ三西野氏、岡部に駿岡社、藤枝にカク二鈴木商店など輸出向け篭茶専門の再製工場が出現しました。
外商が静岡へ移転した原因は
第一に居留置の住民の返還期が来た事
第二に製茶再製機、特に再製釜が原崎、大石両氏により発明され、従って従来の手釜より広い場所が必要なくなり従って工場がせまくてすむ事
第三に時の政府が清水港を貿易港として指定し、しかも日本一の茶産地と静岡と近接し輸出に便利な事
第四に横浜居留地は当時の流行病の内一番悪性のペストの流行地であり、その消毒には当時は石炭酸を配布したので、そのにおいが茶にうつりやすい事
第五には大谷嘉兵衛(当時横浜実業界の第一人者)の経営する工場が全焼し、その再建地に静岡を選んだ事
この五つが静岡へ移動する大きな原因です。しからばその当時の静岡はどうであったかというと、明治三十六年に富士製茶は尾崎伊兵衛氏(静岡茶業の第一人者)と提携し、堀の内から静岡に本店をうつし、北番町(現在の厚生病院と厚生苑)に大工場を設立しました。また、現在の竹沢製茶(北番町)の場所に神戸の業者により神戸製茶(KK)が設立されました。石垣長右衛門氏(活動家で北番町、安西、茶町を茶業の中心にした第一人者です)は茶町に製茶委託問屋を新築し、小林市蔵氏も安西に荒茶委託問屋をつくりましたが内地向け問屋としては、水上房吉氏がタバコ販売を営業しながら店を持っておりましたのと、小山兼吉氏が内地問屋として存在しているのみで他の業者は、荒茶の横浜出しを主営業としておりました。大谷嘉兵衛氏もアメリカ商メーシー商会(通称アメ三)と共同して安西に工場を建設し始めたのを見て、ヘリヤ商会とジャーデンマゼソン商会は北番町に大工場を建設し、エブリル商会は社長が死去した為、支配人が富士商会と提携してその一室を借りその名もホキットニー商会としてお目見えしました。また、日本郵船株式会社(NYK) 社長近藤氏は日本共同製茶 (KK)を設立し、海野孝三郎氏(俗称井川の殿様)の鷹匠町にある東洋製茶(KK)を第一工場、藤枝の笹野工場を第二工場とし牧之原に第三工場を、そして北番町(現在の八雲製材の一角、後の吉川北工場の所)に大工場を設立しました。
この共同製茶(KK) は近藤氏が自社の船舶を清水港に入港させ輸出茶の大半をNHK (自社)に利用して貰う事と茶業の発展を期待してあえて茶業に乗り出し、明治四十年清水開港、日本茶輸出第一船として神奈川丸を寄港させた事は、静岡茶業に対し大ない光明を与えたのです。
この近藤氏と東洋製茶を創立した海野孝三郎両氏の事は多くかたられませんでしたが、海野氏は清水開港に就いても努力され、その財産の大半を茶業にそそがれいかにも俗称井川の殿様らしい姿でした。
また、尾崎伊兵衛氏は静岡人として一人、富士製茶の本社を静岡に移らせ、北番町を茶業の中心地とさせた第一人者といえます。
この尾崎氏は安西三丁目に尾崎国産社という荒茶委託問屋をも開設し茶の集荷に全力をつくされた事も石垣長右衛門氏と共に静岡茶市場開設の第一人者といえます。
さて、外商が静岡に移動したのと同時に静岡の茶業者はどうであったかをかえりみると、横浜出しをしていた吉川國太郎氏(覚次郎の養父)、成岡甚之丞氏(現三和製茶の成岡浩次郎氏の実父)が再製釜をすえつけ再製工場を設立し、横浜で輸出荒茶問屋明石屋の吉永氏は片羽町の富豪伏見一家と締結し、材木町に伏見製茶を創設し、市内茶業の水上、小山等により駿府製茶が安西に、上田一家が北番町に、静岡製茶、森再製の静北製茶を北番町に、寺町には佐瀬佐太郎氏が再製工場を、そしてバスケ茶専門に安西に浜佐商店、川熊商店、また釜茶の上茶専門の赤沢屋、横浜から移転して来た岡野屋も釜茶再製を始めましたので再製工場を持たず再製茶を仕入れ、外商ハント商会、ゴットリーブ商会、プール商会、古谷商会、西村商会、シーグフリド商会などに火見本により再製茶の取引がされたのです。
再製業者は静岡のみでなく、郡部で榛原のカネ万中村製茶部(中村円一郎経営)、有原商店、庵原郡の石貝製茶、藤枝のカネ三西野商店、笹野徳次郎商店、森町製茶、掛川の堀製茶、小笠郡のマル共揉切製茶などが釜茶を主体に藤枝のカク二鈴幸、マル花花沢、駿岡社、金谷のサス多柴田などがバスケ専門、板山のマル三製茶、ヤマニ製茶、島田のカネ福商店などがアイノ専門店として静岡の輸出商社と取引をしておりました。
当時の静岡に於ける荒茶取引は荒茶委託問屋を通じ多くの商社は内サイトリが委託問屋から見本を集め外商を始め大再製業者の取引は現金取引でした。
当時の静岡の荒茶問屋は、尾崎国産社、マル八国産社、水上委託部、カクサ渡辺商店、マル玉武田、カク二鈴幸、マル辻辻安吉商店、カネ町町田商店、野崎商店などが主なる問屋でした。
そしてその他に神戸から移転した宇和商会、園部商店がありました。
静岡へ出張し、再製業者とコネクションができれば、事務所を持つことができ、仕入れが出来る事がアメリカの茶業者に知られたので、横浜時代には見られませんでしたゴットリーブ商会、フォルヂャー商会、シーグフリード商会、ピーターソン商会、プール商会及び日本人商社として古谷商会、西村商会などが開業し、静岡市北番町が日本茶貿易の中心となったのです。
そして各外商の店主は四月中旬から来日し、仕入れ茶の準備にかかり、新茶から仕入れを始め十月迄の半年間は静岡に滞在しておりました。
商談の方法は、横浜時代と変らず各貿易商は居付き仲次人を置き、その仲次人が荒茶問屋を回り、買入れ希望の見本を荒茶問屋に持参し商談を勧めたのです。
横浜時代と違う点は、外商の内荒茶を専門に仕入れたのは再製設備があったヘリヤ商会、英一、日本製茶、富士製茶の四社だけでその他の商社は、再製業者から再製茶の仕入れ専門でした。富士製茶の一部に店舗をかまえたグロー氏が、明治四十四年北番町の神戸製茶跡(現在の竹沢製茶と静岡茶商工業協同組合冷蔵庫の場所)を買入れホキットニー商会を設立し、再製茶の仕入れを始めました。
<<ここで笑話をひとつ>>
横浜から静岡へ市場が移動した時、ひとつの困った事がありました。それは、当時静岡には洋風のホテルは一軒もなく外商の社員の住居の問題です。当時西草深方面は貸家が多くありましたが、トイレ、風呂、台所の設備が異なり、これを改造するのに静岡の大工さんは無知でしたので、大工さんは横浜に出張見学して改造し、また当時水道がなかったのでポンプでタンクに水を入れるポンプなどを横浜から購入して、間に合わせ今の若い人の考えられぬ苦労をしました。
出典:大石鵜一郎『貿易茶物語』。本文は文字起こし版です。